2017年05月26日

会下(えか)会

私の元で嘗て修行し、今はそれぞれ住職している連中が集まって懇親会が催された。今年の当番は群馬の男で、伊香保温泉で一泊、大いに昔話に花を咲かせ、翌日は30分ほどバスに揺られて、近年世界遺産に登録された富岡製糸所を見学して来た。ガイドさんが付いて詳しく中を説明してくれた。想像以上の立派な建物で、実に良く整備保存されていた。引きも切らず見学者が訪れ、広大な敷地の一角ではまだ建設中の建物などもあった。私も老化し、遠方へ出掛けるのが何かと億劫になって、皆に以後は岐阜の近くでやってくれと言っていたのだが、温泉に浸かって、ご馳走を頂き、富岡製糸所を見学しているうちに、やっぱり億劫でもこうして遠くまで出掛けなければ、楽しい思いも出来ないと悟り、コロッと前言を翻し、次回からも出来るだけ珍しいところへ案内するように頼んだ。まあ何と年寄りなんぞと言う者は、身勝手なものだと、我ながら呆れかえったと言う次第。

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2017年05月15日

半夏大接心

今日から夏期3回ある大接心の2回目が午前3時から始まった。急に暑くなってきたので、暑さとの戦い。と言ってもまださほどでもないが、坐禅を組むと体温が通常より上がるので、汗がしたたり落ちる。加えて冬と違ってどうしても緊張感が緩む。だから精神的には冬より苦しむ。また眠気との戦いでもある。私はこれをもう55年間も続けてきたわけだが、老齢化のせいか、2,3日経つと矢鱈頭痛に悩まされる。これも楽じゃない。鎮痛剤の良いのを発見したので、それで何とか凌いでいる。大接心が終わると、途端に治ってしまうのだから不思議。精神に弱いところがあるのだろう。

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2017年05月08日

降誕会(花まつり)

1ケ月前の4月8日に行うところもあるが、うちでは今日5月8日にお釈迦様の誕生を祝して法要を行う。以前は山門前に花御堂の誕生仏に甘茶をかけて貰い、大きなやかんに一杯甘茶を用意して、随時持って帰って貰っていた。ところが近年、お参りの人は誰一人なくなり、勿体ないので止めた。私が小さい頃は、学校から帰ると、近所のお寺へ一升瓶を下げて甘茶を貰いに行った。その頃はジュースやコーラの自動販売機もなく、喉が渇いたら井戸水を飲んでいた。そういう時のこの甘茶は実に嬉しいもので、すっ飛んでお寺に行ったものである。お釈迦様の誕生日がこういう風に伝わって来たのが、今や誰一人知る者もない。寂しい限りである。

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2017年05月07日

カラスの食糧難

以前、飢餓に瀕したカラスが盛んにリスの子供を狙い撃ちして食料にしていると書いたが、どうもそれも食い尽くしたらしい。更に飢餓は深刻で、このところ庭に七,八羽の烏が常駐し、あの大きな嘴で苔を掘り返しては、ミミズなどを食べている。追い払っても直ぐにやって来る。丹念に掘り返すから、庭は瞬く間に穴だらけになった。これが毎日だから堪ったものではない。また一方、木小屋の煙り出しにコウモリが巣を作り、下は糞だらけとなったので、金網を張って防いだりと、いろいろ手がかかる。山家の寺は自然満載で結構なのだが、工合の悪いことも沢山ある。以前、ハクビシンが天上に入り込み、中で子育てを始め、糞はするわオシッコはするわで、困り果てたことがあったが、次から次へと山の動物と格闘である。この所猪の襲来は減ってきたので一安心だが、またいつやって来るか分からない。と言うことの繰り返しだが、眼に染みるような新緑を眺めていると、まっ、こういうのも仕方がないのだと思っている。

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2017年05月05日

天道はいずこにあり

世間ではいささかも誠意なく、行動は不真面目で、だがかえって社会では信用を受け、成功を収める人が居る。一方至極真面目で誠意篤い人が、かえって世に疎んぜられ落伍者になる場合がある。これはどういう訳なのだろうか。思うに、志が如何に真面目でも、その所作が遅鈍でいい加減で邪な心では何もならぬ。これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為のもとである志が曲がっていても、所作が正しいという理屈は、厳格に言えば有ろうはずはないが、聖人も欺くに道を以てすれば与しやすきがごとく、実社会では人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを置く。どうしても所作の敏活で善なる者の方が信用されやすい。江戸時代の話だが、将軍吉宗公が巡視されたとき、親孝行者が老母を背負い拝見に出て褒美を貰った。ところが平素不良の無頼漢がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美を貰ってやろうと、他人の老婆を借りて背負い拝見に出掛けた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側用人から彼は褒美を貰わんがための偽孝行であると申し立てた。すると吉宗公は、いや真似は結構と篤く労れた。志の善悪よりも所作の善悪が人の目に付きやすい。従って巧言令色は世に時めき、諫言は耳に逆らい、ともすれば忠恕の志ある真面目な人が疎んぜられるのである。これでは天道はいずこにありやと嘆かれるのだが、悪賢い人前の上手な者が比較的成功し信用される事例のある所以である。

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