« 2009年04月 | メイン | 2009年06月 »

2009年05月30日

先日嘗てうちの道場で修行した者が挨拶にやってきた。彼は既に道場での修行以前に、結婚したいと思っていた相手があって、だから修行も余り長く居らずに帰っていった。在家からの出家で、性格も良く、弱い者への思いやりもあるいい男だったので、早々の下山は残念なことであった。その後風の便りに、或る大寺で客僧として働きつつ女房子供を養っていると聞いた。人にはいろいろな生き方があるので、善し悪しは簡単言えぬが、わざわざ思うところあって出家したに違いなのに、残念なことだと思っていた。たったこれだけの縁だったが、季節にはいつも僧堂に施菓を送って来たり、臘八大接心前には元気に乗り切って欲しいという願いの籠もった栄養ドリンクをごっそり送ってきたり、何時までも僧堂のことを忘れずにいるのだという心根は伝わってきた。都会の片隅で六畳一間の小さなアパート暮らしも楽ではなかろう、しかし自ら選んだ道なのだからこれもやむを得ないとも思いつつ、これから先何とか良い道が開けてくれればと念じていた。7年ほど過ぎた頃、知人から、彼がある立派な寺に迎えられ、幸せに暮らしていると聞いた。そんな劇的なことがあるのだと改めて驚き、また彼ならそう言うこともあるのかも知れないとも思った。久しぶりに会って颯爽とした姿に、今の様子が窺われた。いろいろ聞いてみると何から何まで勿体ないような環境で、運の良さを改めて感じた。そしてこの運は決してただ偶然に転がり込んだわけではなく、彼の7年に及ぶ逆境の中での真摯な生き方が報われたのだと感じた。捨てる神あれば拾う神あり、真面目にこつこつ生きていれば、どこかで神様がご覧になっているに違いないのだと思った。

投稿者 zuiryo : 09:19 | コメント (0)

2009年05月29日

掃除

今日は僧堂創建の祖師、円照禅師の毎歳忌で会下の連中が沢山集まった。最近住職した若手は雲水と一緒になってお膳運びや給仕役、行事後は幕や戸帳などの後片付けも手伝ってくれ、お陰様で無事円成した。ところでこういう法要では何が大変と言って、境内の掃除が一番骨が折れる。21日に半夏大接心が終わり、休む間無く連日遅くまで掃除が続いた。一週間ほど前には檀家の人達が全山清掃奉仕をしてくれた。常識的に言えばこれで掃除は終わったようなものだが、現実はそうではなくこの日が掃除の始まりなのである。二日もすると元の木阿弥、周囲を山に囲まれ、植え込みでびっしり覆われている庭は、一回の掃除でせいぜい二日持てば良い方なのだ。だからその後、雲水だけで全山二回繰り返し掃除をした。それなら逆算して法要行事の二日前にやれば、一回で済むではないかと思われるだろうが、これが違う。同じ庭を三辺繰り返し掃き清めて、初めて美しい庭になるのである。良く地方のお寺で法要があって招かれた折り、東司(とうす・トイレのこと)を使った時必ず窓を開けて裏庭を見る。行事に合わせて間際に一回掃いたようなのは、掃かれる土の方が箒と馴染んでいないから、葉っぱは落ちていないのだが、不思議に美しくない。僧堂の庭は一年中雲水が繰り返し繰り返し掃き清めているから、たとえ葉っぱが散っていても美しいのである。

投稿者 zuiryo : 20:10 | コメント (0)

2009年05月22日

モルドウ河

過日、岐阜交響楽団のウイーン演奏会があり、日本からの応援団200人の一員として出掛けた。中欧はまだ寒かろうと、バッチリ冬支度で行ったら、何と連日25度を超す猛暑。熱いの何のって、カンカン照りの中、顔は真っ赤っかに日焼けし、夏用の物は一切準備して行かなかったから、難行苦行の日々だった。そう言うことを除けば、演奏会は大成功だったし、地元の方々も立ち見席が出るほど来てくれたし、言うことなし、無事円成した。帰路ウイーンからチェコのプラハに寄った。ここはボフェミアグラスの産地として有名で、知人が茶碗を買った。大きさと言い模様と言い、なかなか良い見立てで、さすがK氏である。そこで箱書きを依頼され、出来れば銘もつけて欲しいというのである。丁度今日、そう言う方面では師匠格の方が見えたので相談したところ、表題の「モルドウ」と相成った次第。プラハの街に流れるモルドウ河から取ったもので、早速書いてみたが、我ながら良い出来栄えである。外国旅行で土産と言っても、なかなか良い物がない。帰ってきて改めて眺めると皆がらくたばかりで、何でこんな物を買ってしまったのかと反省する。そこで各地の名産品の中から、茶道具として見立て、後日茶事の遊び心の一品として出すと、結構楽しいものだ。しかしこの見立てが難しい、相当茶心がないと、面白い物は手に入らないのである。

投稿者 zuiryo : 14:51 | コメント (0)

2009年05月18日

逝きし世の面影

渡辺京二著、中味の一部。英国の詩人エドウイン・アーノルドはあるスピーチで日本を、「地上で天国あるいは極楽に最も近づいている国だ。」さらに、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧ではあるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである。」とまあこんな風に続く。この時代日本を訪れた外国人の間では、女性に対する評価が非常に高い。服装も地味で、知性がありながら出しゃばったりせず静かに微笑んでいる。女性の外見を褒めているわけではなく、「彼女たちはけっして美しくはない」とも書いている。「陽気で純朴にして淑やか、生まれつき気品にあふれている」点が魅力的だったようです。下品な美人より愛嬌と気品のある不美人のほうが、どれだけ魅力的だったか知れないというわけである。ところでこれを読んで思うのは、現代の日本と余りにも違うことである。現代社会では、文明化とはどれだけ資本主義が進んでいるかであり、資本主義は競争原理に基づいているから、ゆったりとは相反する。利潤を上げるために効率を重視する。効率は時間だから、皆余裕を奪われ世知辛くなってしまう。限りなく欧米化することが果たして日本人の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、はなはだ疑わしい。日本は嘗て金銭欲や物欲からもっとも遠く離れた国だった、云々とまだ続くが、ご一読をお勧めする。
ところでこの間まで、連日30度近くまで気温が上がり、まるで夏到来を思わせる日々だった。そこで思い切って、タンスの中味をすべて夏用に変えた、途端に小寒く成ったので、また総入れ替えだ。白衣も生地の薄手のものに変えた。あっちこっち綻びていたので、一日かかって把針、出来た~!と思ったら、自分の着ている白衣も一緒に縫い込んだため、もう一度やり直し。これらの苦労も全てぱ~。もうまったく、腹の立つ!

投稿者 zuiryo : 19:53 | コメント (0)

2009年05月14日

また噛みつく

度々ハチのことばかりで気が引けるのだが、ほかにこれっという話題もないので、ご寛恕の程。この日差しの強い中、猫でも木陰に涼むというのに、我が愛犬ハチは延々と日向ぼっこをするのが好きだ。小さい頃からの趣味なのだが、寄る年波には抗しきれず、最近は熱中症になって脳貧血を起こしバタッ!と倒れては我々を慌てさせる。誰かが側にいて見張っていれば良いわけだが、そんなことはしていられない。そこで日曜大工店でバリケードを買ってきた。日向に出られないようにぐるり囲ったわけだ。最初、鼻の頭でぐいぐい押しては何とか突破しようとやっていたが出られず、ハチのストレスは極限状態に達した。ついに爆発していきなり足に噛みついてきた。そこで譲歩案として、15分間だけ日向に出し、餌で釣ってバリケード内に引き入れることにした。まあ、ハチの嬉しそうな顔!動物病院の先生も、ハチの異常なほどの日向ぼっこ好きには首をかしげていた。小さい頃うちに引き取られるまで山野を放浪して、真冬の寒さに震えていたのかも知れない。三つ子の魂百までと言うが、日向こそ一番と、脳に刷り込まれたのだろう。

投稿者 zuiryo : 18:17 | コメント (0)

2009年05月13日

馬糞舞う

認知症はハチではなくお前の事じゃ、と言われそうなスカタンをやってしまったが、これには少々訳があって・・・・、と言いたいところだが、見苦しいので止める。さて先日再びスケッチへ出掛けた。残雪の霊峰白山を描くためである。この時期を逸してはチャンスはないので日曜日高速千円で混みそうな雰囲気だったが出掛けた。道路はまあまあと言うところだったが、サービスエリアはどこも満杯、通路まで車が溢れかえっている有様、ボッカの里なども駐車場は一杯、不景気などどこ吹く風である。さて我々はスケッチポイントを探しながらひるがの高原を走ってようやく牧草地に木立の日陰のある絶好の場所を確保した。遙か前方には真っ白な白山、手前の山々は新緑に映え、酪農家の家並みを近景にして早速描き始めた。爽やかな春風が吹き抜け、周囲の山から鶯の声がしきりに聞こえ、のどかさを絵に描いたような所だった。暫くしてふと気が付くとそこはかとなく田舎の香水のかおり、よ~く見ると目の前の藁の小山は、乾燥中の馬糞だったのだ。なーるほど、馬糞の原料は藁なのだから乾燥して元の姿に戻りつつあると言うことだ。それがそよ風に舞って我々の方にも容赦なく降り注ぐ。つまり馬糞を浴びながら霊峰白山を描いたと言うことである。3時間かかって一枚描き上げその場で弁当を食べた。え~っ!馬糞振り掛け弁当ですか、と言われそうだが、今から思うとそうだったのだが、のどかな雰囲気の中、爽やかな風と鶯の声をバックグラウンドミュージックにしていると、全く気にならなかった。それどころか馬糞の香りも何だか良い匂いのような気がしたのだ。照り返しで顔は真っ赤っか、絵は大不出来で、労多くして功少なしの一日だったが、のんびり出来たのが良かった。

投稿者 zuiryo : 08:27 | コメント (0)

2009年05月12日

認知症

認知症と言っても人間ではなく愛犬ハチのことである。人間年齢でいくと、優に80歳は超えているので仕方がないことだが、万事にものぐさになって、私の姿を見ても上目遣いに一瞥するだけで、表情一つ変えない。小さかった頃はちぎれんばかりに尻尾を振って、飛びついてきたのだが、その頃のことが妙に懐かしく思い出される。2,3日前も、カンカン照りに日向ぼっこをしたため脳貧血を起こしてぶっ倒れた。2回目である。幸い直ぐ回復して事なきを得たが、これなども老齢化により体力の衰えが顕著になった表れであろう。近くの公園へ散歩に出掛けたとき、たまたまベンチに腰掛けてパンを食べていた人が居た。目敏く見つけてじ~と欲しそうに眺めて動かないのだ。仕方がないから間に割って入り、通せんぼをしたところ、いきなり私の足に噛みついてきた。その時の形相たるや凄まじいもので、並尋常ではない。よく酒乱の人の豹変に驚かされるが、ハチは「食乱」で、食い物のことになると人格が一変、あの優しいハチが牙むき出し目を三角にして鬼のようになってしまう。つまりこれなども老齢化により、自己中心的、食うか寝るかどちらかになってしまったからであろう。そう言うハチをじっと見ているうちに、何だか自分のやがて行く道を見ているような気がしてきた。

投稿者 zuiryo : 10:09 | コメント (0)

2009年05月09日

認知症

認知症と言っても人間ではなく、愛犬ハチのことである。人間年齢でいけばゆうに80歳は超えているので、仕方がないことではあるが、万事ものぐさになって、私の顔を見ても上目使いに一瞥するだけで、表情一つ変えなくなってしまった。小さかった頃、ちぎれんばかりに尻尾を振って、飛びついてきた頃の事が妙に懐かしくなる。つい2,3日前もカンカン照りに日向ぼっこを長時間したため、脳貧血を起こしてぶっ倒れた。これで2回目である。幸い直ぐに回復したので大事には至らなかったが、これなども老齢化による体力の衰えが顕著に現れた例である。近くの公園に散歩に出掛けた折、丁度ベンチに腰掛けてパンを食べていた人を目敏く見つけ、欲しそうにじ~と見て動かないのだ。仕方がないから間に割っては入り通せんぼをしたところ、いきなり私の足に噛みついてきた。その形相たるや並尋常ではないのだ。よく酒乱の人の豹変にビックリさせられるが、ハチのは当に「食乱」で、食い物になるとあの優しいハチが、牙を剥き鼻にしわを寄せ目を三角にして、怒号と共に食い付き、「人格」が全く変わってしまうのだ。つまり老いの一徹というやつで、自己中心的で、食うか寝るかのどちらかになってしまった。そんなハチをじっと見ていたら、何だか自分のやがて行く道を見ているような気がしてきた。

投稿者 zuiryo : 17:01 | コメント (0)