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2025年05月31日
机の前の窓越しに・・・
ユラユラ揺れる山の木々を飽きずに眺めている。ボ~ッとして居るときが一番好きだ。雲水時代、先輩で矢鱈人の側にくっつきたがる変な人が居たが、その場を逃げ出したいのだが、先輩だからそうもいかず、困ったことがあった。てめえ他にすることね~のかよ~!と思っていた。幼少期の孤独な日々の反動だと解ったが、あんな迷惑な人は無かった。60そこそこで、あっという間に癌になって死んでしまった。屹度罰が当ったのだと思った。トホッ!まっ人のことはさて置き、自分がそうならないようにしよう。さて今日は久し振りに外へ買い物に出掛けた。目的の物は残念ながら無く、空振りだったが、折角来たのだからと思い、適当に何か買ってきた。
2025年05月30日
毎度~!
くだらない文章で恥ずかしいことこの上ないのだが、まっ、これで周りの人が酷く迷惑かと言えばそんなことはない。無視すれば良いだけのこと。そう勝手に思って恥じをも顧みず書き続けているっつうわけ。さて、きょうも何事も無し。「無為」が私のトレ~ドマ~クみたいなもの。机の窓越しに向いの山が鬱蒼と茂っている。飽きずに何時までも眺めている。こうしていると不思議に心癒やされる。もっと若い頃は、毎日裏山歩きが日課だった。それがやがて二日に一辺になり、3日に一辺になって、ついになくなった。今では日々「置きもの」生活になってしまった。トホッ!
久し振りで、更新方法が・・・
解らなくなってしまった。まっ、どうせくだらないブログだから、一層永遠に解らないでいて欲しいと思う方々も沢山おられるだろうが、そこはそれ、逆境に耐え、少々のことではへこまないド根性だけは堅持しているから、執念深く書き続ける。トホッ!あっという間に早や5月も末、月日は百代の家客にして・・・である。毎度のことだが、机の前のガラス越しに向いの鬱蒼と茂る山をジ~ッと何時までも飽きずに見続けている。私はこう言う時が好きだ。「有由有縁(うゆうえん)」と墨書した紙が置いてある。生きている限り、誰に出会うかも解らない。時・所・人・物と、この世での巡り会いが人生の少なからぬ部分を占める。偶然のようであるが、起こってみれば必然のことである」。そうなるにはそうなる理由があるってえわけ。
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2025年05月26日
毎日無為
嘗て私が仕えた師匠はお二人とも、常に側に人が居ないと居たたまれないという風だった。これが何とも不思議であった。人ぐらい煩わしいものは無いでは無いか。今私は思い通りに、日々孤独を楽しんでいる。「無為」が私のトレ~ドマ~ク。居室、向いの山の立木がユラユラ揺れて、陽に照らされてキラキラ輝いている。ジ~ッと飽きずに眺めている。こんな幸せなときはない。元来師家というのは孤独が仕事みたいなものなのだ。私は小さいときから勉強が大好きで、学校から帰るとズ~ット机にしがみついていた。母が時折覗いて、ハイ!外へ遊びに行ってらっしゃい!と言うのが毎日のことだった。この性癖は幾つになっても変わらず、今尚机にしがみついている。
2025年05月24日
何も無いが、書く
書くことが何も無いなら書くな!と言うことなのだが、書くことが何も無いと言う事を書く。人間なまくらになったら限りなくなまくらになる。だから自分で自分を奮い立たせて、書く。終日無為、これが私の日々。この無為くらい有為はないからだ。常に側に人が居ないと居たたまれないという変な人が嘗て居た。何とも不思議な人だな~と思っていた。今でもそう思っている。孤独が居たたまれないという淋しい人生を、特に幼年期に生きてきたのだろうと察する。その寂しさがトラウマになって、無意識のうちに人の側にくっついていたくなるのだろう。幼年期に絶えきれないほどの孤独を心の底に植え付けられた人の、理解しがたい性行なのだろう。
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2025年05月18日
何も無いが、ブログを書く
20日間もブログが空いたので何か書こうと思った。しかし無理に書いても仕方がないので、しばし沈思黙考。居室の窓越しに向いの山の鬱蒼と茂る緑を飽きずに眺めた。ボ~ッとしているこう言う時が私は一番好きだ。嘗て私が仕えた師匠はお二人とも常に側に人が居ないと居たたまれないという風だった。これがなんとも理解しがたく不思議な人だな~だな~と思っていた。私は反対で、ジ~ッと一人で居るのが好きで、心落ち着き、安らぐ。だから日々ジ~ッと独りぽっちを楽しんでいる。そもそも僧堂師家というのは、独りぼっちが仕事のようなものである。その独りぽっちが嫌なら、師家なんかになるな。トホッ!
ブログが一瞬にして消えた
たまにはブログも書かなくっちゃ~と思い、書き始めたら、一瞬にして消えた。トホッ!うん、そうか、下らんブログなど書くな!と言う天の思し召しと思い、止めようと思った。しかし待てよ!ものは考えようだ。だから頑張って書け!と言う天の思し召しと言う事もあると思い直した。向いの山の緑も鬱蒼と茂り、風に微かに揺れている。ジ~ッと何時までも眺めている。無為、私はこう言う時が好きだ。無為くらい有為な事はないからだ。
2025年05月17日
何も無いのが一番
嘗て仕えた師匠は常に周りに人が居ないと居たたまれないという風だった。これが何とも理解しがたく、不思議な人だな~と思っていた。人くらい煩わしものは無いではないか。この思ひは今でも変わらない。孤独大好き人間の私は、居室の窓越しに向いの山の鬱蒼と茂る緑を飽きずに眺め、楽しんでいる。来客も出来るだけ来ないようにしている。鬱蒼と茂る木々に囲まれ、ジ~ッと何時までも眺めている。側らには愛猫タマちゃんがいて、丸くなっている。こんな幸せな日々はない。今机の前に嘗て住職していた鎌倉の寺の紅葉の絵はがきが置いてある。ジ~ッと何時までも飽きずに眺めている。懐かしい思い出の数々が甦ってくる。
2025年05月09日
連日無為
こんな表題は少し恥ずかしいのだが、しかしこの無為を楽しんでいる。私が仕えた師匠はお二人とも、毎日人に接していないといたたまれないという風だった。これが何とも理解しがたく、不思議に感じていた。人くらい煩わしいものは無いと思う、孤独大好き人間。日々その孤独をギシギシ噛み締めて楽しんでいる。居室の机の前の窓から、向いの山の鬱蒼とした緑を飽きずに眺めている。こう言う時が私は一番好きだ。
2025年05月07日
無為
僧堂行事も無く、半夏大接心も1週間後、日々ゆったり過ごしている。私は生来怠け者だから、何も無ければ終日ボ~ッとして、机に向かっている。向いの山の鬱蒼とした緑が風にユラユラ揺れている。窓越しにそれを飽きずに眺めている。夕日にキラキラ輝いている。静まりかえっている。無為、これが私の日常である。こう言う時が私は一番好きだ。側らに愛猫のタマちゃんが丸くなって寝ている。
2025年05月05日
あっと言う間に・・
5月になっても、ノ~ビリの日々は変わらず、むしろ近頃はそれに拍車が掛かってきた。まっ、これは私の生来の気質なのだ。持って生れたものは、なかなか変われない。別に変わらなくともこれで僧堂に何も不都合は起こらないので、これからも一生これで行こうと思っている。個人的なことはさて置き、月日は百代の家客にして行き交う人もまた旅人なりで、あっと言う間に早や5月、新緑の季節を迎えた。未熟者も何と今年83歳、瑞龍寺にやって来て43年になる。この間、大病もせずお役目を果たしてこられたのは一重に神仏のご加護と山内和尚さん方、会下和尚のお陰である。有り難いことと何時も感謝している。これからもこの感謝を忘れずに頑張って行こうと思っている。
2025年05月04日
話題、何も無し
カレンダ~では昨日から4連休中、しかし僧堂では連休など関係ないので、何時もの通りで、何も変わること無し。ところで最近特に、殆ど何もせず、ボ~ッと過ごすことが多くなった。これは偏に老化による。間もなく83歳。トホッ!僧堂はほぼ毎日することが決まっていて、刺激ゼロ。緊張感無し。まっ、幸せと言えばこんな幸せなことは無い。何時も有り難いと感謝している。この単調で無刺激な日々に絶えかねて、特に用もないのに、そこら中、出掛けまくっていた変な人が嘗て居たが、ああは成りたくないと思い、居室に引き籠もっている。まっ、人それぞれっつうことである。私は小さい頃から勉強が大好きで、学校から帰ると机にしがみついていたから、いつも母から、ハイ!何処かへ遊びに行ってらっしゃい!と言われていた。三つ子の魂百までと言うが、本当にそうだ。