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2022年05月31日

万事にボ~ッ!

つい先日も同様の題目で書いたような気がするが、相変わらずこの、ボ~ッ!は治らず、今なお健在である。健在というのも可笑しいが、兎も角これが続いているのだ。本当に困ったもんだ!雲水達にもよくよく周知してある。だから私がスカタンやっても、あっ!またか!てなもんで、サラリッ!と受け流す。人間80歳にも成れば、こんなもんじゃないの。そんなに酷くはた迷惑!というほどでもないので??、雲水も皆サラリッと上手に受け流してくれている。感謝・感謝である。ボツボツ師家も交代だな~っと思うこの頃である。40歳で師家となって、爾来40年間、大過なくよく勤めたもんだ。だ~れも、そう言ってくれないから、自分で言って自分で褒めていると言うわけ。人間だから何とかポンコツでも保っているが、もし機械ものなら、とっくに廃棄処分である。まっ、良いこともある。何か事が起きても、経験値の深さで、サラッ!と受け流すことが出来ることだ。とわ言うものの、廃棄処分寸前と言う事には間違いない。

投稿者 zuiryo : 16:36 | コメント (0)

2022年05月26日

Y氏を訪ねる

以前は頻繁にお邪魔していたのだが、近年はばったり縁遠くなった方を、久しぶりに知人の案内でお訪ねした。広大な敷地に工場など関連の施設が林立し、その一番奥に「人間村」と言う、いわば精神修養的な施設がある。以前はこれらの施設で、外部から講師を招き、定期的に集まりを設けていた。近年はやや下火になったが、相当な規模である。小雨の降る生憎の天気模様だったが、施設内をくまなく御案内頂いた。老いたりと言えども、その心意気はなお衰えず、頭の下がる思いであった。一念を貫く精神の若さを感じた。私より遙かに高齢の方だが、大いに学ばなければならぬ。これからの私の良いお手本にして、負けずに頑張ろうと思った。

投稿者 zuiryo : 16:09 | コメント (0)

2022年05月25日

医者通い

加齢と共に、あっちこっち不具合なところが出て来て、毎月の医者通いが、私の仕事である。まっ、どれもさほど深刻な状態ではないが、毎月通わなければならないのが、厄介と言えば厄介である。人間八〇にもなると、大抵こんなもんだ。まだうちは市内の中心街にあり、どのお医者さんも、直ぐ近くにあり、さほど時間がかからないというのが有り難い。またお医者さんの数も種類も多く、内科・外科・眼科・皮膚科・耳鼻咽喉科等々と、全て間に合うというわけ。ふっと雲水修行の頃を想い出した。当時胆石痛の病を抱えており、突破的に痛み出し、七転八倒の苦しみ、痛っタッタッ~ッ!とぶっ倒れると,副司さんは田舎で一軒のお医者さんへ電話、時間帯によると目下往診中などと言う事もあり、その行き先を聞き、現場へ駆けつけたり、と言うような次第で、私も随分みんなには迷惑を掛けたもんだ。これが加齢と共に自然に良くなって、今ではそんな緊急事態は無くなった。いずれにしても病気の問屋さんである事は間違いなく、死ぬまで抱えながら生きて行くことになる。トホッホッ!

投稿者 zuiryo : 15:42 | コメント (0)

2022年05月24日

猫助け

大接心も終わってゆったりの日々、昨日は本山主催の禅学林というのが近くの尼僧堂であって、1時間ほど話をした。その外、何も無く、隠寮の廊下で、籐椅子に長々と寝そべって、向かいの山の新緑を堪能した。ボ~ッと眺めているのが一番好きだ。以前はリスが矢鱈増えて、枝を飛び回っていたが、どなたかが駆除したのか、全く姿が見えなくなった。ところで、近くの公園に、捨て猫がかなりの数居て、近所の方々が周りの人の目を盗んで餌やりをしている。通りがかりに、その中の一匹に、この奥のお寺へお出で!と指さしたら、本当にやって来た。それからは餌をやり、ダンボ~ル箱で小屋を作って、そこに住まわせている。元は何処かの飼い猫だったのが、何かの事情で或る日公園へ捨てられ、随分過酷な日々を過ごしたに違いない。日々の餌もありつけるかどうか解らず、しかも捨て猫仲間も沢山居て、生存競争も激しかっただろう。それが私の一声で、漸く安住の地を得たわけだ。お寺も人助けならぬ、猫助けである。

投稿者 zuiryo : 10:37 | コメント (0)

2022年05月22日

大接心明け

昨日まで1週間半夏大接心、今日はお疲れ様の把針灸治、終日ゆったりと過ごし、1週間の疲れを癒やした。良いお天気で、部屋籠もりでは勿体ないような日和だが、籐製の安楽椅子にドテ~ッと伸びきって、しばし英気を養った。庭とそれに続く山の緑があふれんばかり、シ~ンと静まりかえって、ソヨとも風も吹かず、まるで時が止まったようだ。自然の山は変に人の手が入っていないから、それがまた良い。時よりリスがやって来て木々の間を飛んで行く。こう言う時が一番心癒やされる。ところで近年、比較的町中に近いと言うこともあって、油断していると勝手に人が入り込んで、禅堂の中まで覗き込む何てことがおきてきた。そこであっちこっち、手製の柵をこしらえて、通うせんぼ。やりたくないがこれも仕方が無い。

投稿者 zuiryo : 17:14 | コメント (0)

2022年05月21日

ふっと、師匠を思い出し・・

私も師家になって、もう40年になる。丁度四十才でこの僧堂にやって来たから、今年八十才になった。月日の経つのは本当に早いものだ。今日はそぼ降る雨、じっと外をガラス越しに眺めていたら、急に師匠のことを想い出した。五才の頃から見ず知らずの寺に小僧として預けられ、88歳で亡くなるまで、この道一筋の人だった。万事むき出しで、多少品性に欠けるところもあったが、一生懸命で、今にして思えば、本当に素晴らしい禅僧だったな~と、しみじみ想う。年月を経ると当時の生々しさが消えて、なんだか良いところばかりが甦ってきて、また会いたいな~!と、ふっと思った。今度は師家と雲水ではなく、同じ師家の先輩と後輩と言う関係でお目にかかりたいものだ。逸外老師は何と仰るだろうか!ニコッと微笑んで、お前、元気でやってるか~!

投稿者 zuiryo : 15:30 | コメント (0)

2022年05月18日

檀家の葬儀

日中、行事の何もない時間帯に、檀家の葬儀があり、雲水と二人で近くの葬儀場に出かけてきた。最近はいわゆる家族葬流行りで、今日も参列者は家族が数人という小規模であった。葬儀は参列者の人数の多寡で変化するものではないので、いつものように行ない無事終了した。ただ葬儀独特のしんみりした雰囲気は余り感じられず、こちらも雲水と二人で、ちゃっちゃっとやって、はい!終了、という次第。随分葬儀の雰囲気も様変わりしたな~と思った。嘗て僧堂の雲水の頃は、田舎だったと言う事もあって、葬儀は結構大変な事だった。葬儀のお宅まで、山道をテクテク1時間くらい歩いて漸く到着、直ぐにぼた餅を頂き、腹ごしらえしてから一服、それから葬儀が始まった。ところによると、葬儀を途中までやって、一端終わって、チンボンジャラン、と鳴らしものをしながら、近くの山へ登って、そこで引導を唱え・・・てな具合で、結構時間がかかった。そう言う田舎の葬儀と違って岐阜市内ではビルの中の葬儀場で、あっという間に終わる。昔のようにしんみり・・・と言う事もなく、尤もこれは亡くなった人の年齢とか状況によっていろいろ違うが、何だか万事機械的に事が流れているように感ずる。葬儀も少しづつ変化しているようである。

投稿者 zuiryo : 15:32 | コメント (0)

2022年05月14日

新緑が目に染みる

隠寮の少々大きめの庭を挟んで、新緑が眼に染みる。背後の山に繋がる鬱蒼とした木々は、風に揺れキラキラ輝いている。籐椅子に手足を思いっきり伸ばして、ボ~ッと眺めていると、不思議に心癒やされる。うちは比較的町中にあるのだが、参道左右に3ヶ寺づつ、計6ヶ寺が並び、その一番奥に僧堂はある。周囲は鬱蒼とした山に覆われている。市街地とはとても思えないような山家の風情漂うところである。閑かさも同様で、目を閉じると、小鳥がしきりにさえずっている。山奥の鬱蒼とした緑に囲まれ、物音一つしない、山寺の風情である。

投稿者 zuiryo : 16:04 | コメント (0)

2022年05月10日

小半(こなから)

小半、これでこなからと読むのだそうだ。自分の夢を果たすとは他者を蹴落とすことである。オリンピックの優勝者が一人居ると言う事は、何百人の夢を果せなかった人をつくることである。だから、「夢を持ちなさい」なんて、人に強制する話じゃない。「小半(こなから)と言う言葉がある。酒で言うと二合半、一升、十合飲みたいところを半分にすると五合、その更に半分の二合半が小半(こなから)である。酒も小半、欲望も小半にしておこう。それが幸福というものだ。これは慢性現状不満症の私の戒めを込めた幸福論である。
 

投稿者 zuiryo : 21:03 | コメント (0)

2022年05月09日

過去を振り返る愚

過ぎ去った過去を何時までも振り返るのは愚かなことだ。それは前向きでは無い現在がそうさせるので、さっさと、切って捨てることだ。過ぎた事を幾ら振り返っても、そこから新しいものは何も生れない。未練がましくネチネチと、執着するくらい、見苦しいことはない。しかしこれは言うは易く行うは難しの典型で、誰でも解っちゃいるけど止められないのだ。よく死んだ子供の年を数えるというが、人間の心はそう簡単ではない。三歩進んで二歩さがる。まっこれでも差し引き一歩進んでることになるから、まるっきり駄目でもない。行きつ戻りつ、少しずつ、少しずつ前に向かって歩むのである。運・根・鈍と言う。この三つが程よく回転すれば、徐々に前に進む。その為には一にも二にも、根気、気の短い奴は駄目だ。

投稿者 zuiryo : 11:01 | コメント (0)

2022年05月04日

ふっと昔のことを想い出し・・

老人になると誰でも昔のことを振り返ることが多くなる。若いときと違って、次々に新しいことがやって来るわけではないからだ。この寺に来て、もう40年になる。一つの場所に留まった年限で言えば、この岐阜の地が一番長くなった。考えるとここが私には一番適しているように思う。肌合いが良いのだろう。やって来た雲水も次々に変わり、二十年間頑張ったのは二人きりだ。もう顔も忘れて思い出せない者も沢山居る。本堂の濡れ縁に佇んで広がる前庭をじっと眺めていると、過ぎ去った様々なことが次々に浮かんできて、無性に懐かしくなる。私も今年八十才になる。あと何年元気で雲水と修行できるのか解らないが、私から修行を取ったら何も残らないから、ぶっ倒れるまで頑張りたい。

投稿者 zuiryo : 21:07 | コメント (0)