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2016年01月30日

胆石痛

私は数十年前から、胆石痛に悩まされている。特に雲水時代は頻繁に襲われ、七転八倒の苦しみ、4キロ先の内科医へ車で運んで貰い、痛み止めで抑える。こういうことを繰り返していた。そのうち痛み止めの注射も普通のでは効かなくなり、ついにモルヒネで何とか食い止めるという状態であった。モルヒネは効果抜群で、注射針がまだ腕に刺さっているときからボワ〜ンとしてきて、あっという間に痛みがなくなる。しかしお医者さんから、モルヒネを打って痛みを止めても、根本治療にはならない。僧堂修行は厳しいから、この辺で少し体をいたわってはどうかと言われ、それが切っ掛けとなり鎌倉の小庵の住職になった。爾来大接心に通参し、師家になってからも臘八だけはづっと道場に出掛けていた。この間にも胆石痛には度々襲われたが、理由はよく解らないのだが年々頻度は減ってきた。やれ嬉しやと思っていたら、今朝久しぶりに朝課中痛み出しビックリポン!あわてて部屋に戻って薬を飲み横になった。しばらく体を休めていたら自然に痛みも引きやれやれであった。手術をし胆嚢をを取り去り、これで痛みは無くなるはずだというのだがそうならない。この痛みの原因を探るため度々検査もしたが、現代医学をもってしても今なお理由が解らないのだ。もう原因追及は諦め、ともかく痛み止めで抑えることにしている。この所制末で何かと忙しかったから、少し体を休めよ!と言う天の思し召しと感じてゆったり過ごすことにする。

投稿者 zuiryo : 05:19 | コメント (0)

2016年01月28日

鼻毛切り、その後

知人の考え出した鼻毛切りは失敗作と決めつけてしまったが、私の認識不足であった。あれから実際に使ってみると、実に旨く考えてあって、平たいピンセットの先端に小さな丸い金具があり、そこに小さな刃がついている。だから鼻の穴に突っ込んで、あたりかまわずチョキチョキやるとその小さな円形の刃で、うまく鼻毛が切れるのである。これには驚いた。つまり私の使い方が悪かったのである。ただ問題は丸い刃の部分が小さいので相当チョキチョキやってないと駄目なことである。しかし世の中にはいろいろ考える人があるものだな〜、ほとほと感心する。

投稿者 zuiryo : 03:45 | コメント (0)

2016年01月27日

英会話

数年前、頭の体操と暇つぶしに英会話の稽古を始めた。結局実に成らず、数年後には先生も(南アフリカの娘さん)帰国するというので、それを潮に止めてしまった。彼女のご両親はスコットランドからの移住で、南ア二世ということになる。私も何年か前、友人に誘われ10数人のグループで南ア旅行に出掛けたことがあるので、テーブルマウンテンや喜望峰、サバンナ探検等々話が良く合った。彼女の出身地はダーバン、おばあちゃんがケープタウンに住んでいるそうだ。昨年8月いよいよ帰国というとき、南アからお母さんがやって来た。彼女の狭い下宿では気の毒と思いお寺の離れを提供し、数日間親子二人で泊まってもらった。実に可愛らしいおばあちゃんで、たちまち話が弾んだ。用事があって彼女たちの部屋に行き声を掛けたら、トイレ使用中だった。何と全開、二つの扉全て開け放ち、そこから話しているのだ。ビックリポン!思わず後ずさった。でも平気の平左、何とも思っていない。お国柄の違いと言うものの、ここまで違うのかと全く驚ろかされた。フレンドリーこの上なく、凡そ日本的遠慮などは全くない。直ぐに親しい友だちになった。

投稿者 zuiryo : 03:54 | コメント (0)

2016年01月26日

鼻毛

いきなり尾籠な話。無精ひげも見苦しいことだが、鼻毛も不細工なことである。まっ、ひげはお風呂に入った特、ちょちぃっとカミソリで簡単に剃れる。しかし困難なのは鼻毛の処理である。それ用のちっちゃいハサミがあるので、右や左と巧みにハサミを回転しながら、チョキチョキとやる。一応先っちょは丸くなっているが、それでもほぼ毎回鼻の穴の中を切って血がぽたぽたと落ちる。世の中にはよく考える人がいるもので、知人で家具や室内の物、万般にわたって設計する人が、毛抜きを設計した。これは主に女性用であるが、さるやんごとない人までお買い求めになられたという、ヒット商品。そこで気を良くした彼は次ぎに鼻毛抜き考えた。頂いたので使い勝手や如何にと、早速使ったところ、確かに良いが、良くないことが解った。これは平たいピンセットのような物が上下にあり、先っちょで鼻毛を挟んで引き抜くという代物。確実に鼻毛を挟んで引き抜けるのだが、一辺に何本も抜くことになるので、血がしたたり落ちる。ハサミどころの沙汰では無いのだ。完全に失敗作だと私は思っている。

投稿者 zuiryo : 15:31 | コメント (0)

2016年01月23日

苦寒

暖冬の冬も、さすがこの頃は、朝は毎日マイナス1,2度になり、指先がジンジンする。と言っても雲水の頃に比べれば、今の私の生活など暖かい部屋で、温かい恰好で過ごさせて貰っているので、申し訳ないと思うくらいである。冬になると必ず雲水の頃を想い出す。伊深は山間部にあって、岐阜市内より又一段と寒さは厳しかった。着る物も今よりずっと薄物で、暖房は朝の一時、木子屋で焚き火をして暖を取るだけ、後はひたすら寒さに耐え忍んだ。板の間を素足で歩くのは特に冷たく、まるで針のむしろの上を歩いているようだった。その痛さといったらない。その上あかぎれで、正月過ぎのお供えの餅みたいに幾筋もひび割れて、廊下に転々と血の跡がついた。今は白足袋を履き、あかぎれも無く、全く贅沢この上なしだ。ピ〜ンと引き締まった本堂で大きな声を揃えて詠むお経は本当に良い。こういう毎日を過ごさせて貰えるのは僧堂なればこそで、師家になった御利益だと思っている。

投稿者 zuiryo : 03:47 | コメント (0)

2016年01月20日

積雪五センチ

暖冬だったこの冬だが、今朝初めて雪が降り、あっという間に積雪五センチ。しかし2,3時間後には止み、その後はかんかん照り、これまたあっという間に溶けて消えた。友人でスキーの大好きな人が居て、今年は全然駄目ですわ〜!と嘆いていたが、これで岐阜の奥地や長野では相当積もっただろうから、さぞ喜んでいるだろう。お寺は長い参道があり、最後急勾配の坂道になっているので、30センチくらい積もると全員総出で雪かきをする。車の出入りに支障を来すのである。これが結構重労働で、大汗かく。今回はお日様が出て自然に溶けて、楽ちん。しかし風は矢張り相当冷たくゆき風である。明日まで夏末大接心で、窓を開け放って坐禅を組むから、耳が千切れそう。しかし1月の接心がぽかぽか陽気だったら、天に向かって、何してるんだ!真面目にやれ〜!と、木枯らしを催促するところだった。

投稿者 zuiryo : 13:54 | コメント (0)

2016年01月15日

夏末大接心

真冬の接心に夏の末という字では、知らない人が見たら、こりゃなんじゃ!と言う話になるが、この夏という字はサマーという意味では無い。夏(げ)、つまり決まった修行期間をさす言葉である。15日から1週間冬の修行の最後締めくくりの大接心が始まった。今年は異常な温かさがつづき、これでは冬の修行も台無しだな〜と思っていたら、漸く本格的寒波到来で大いに喜んでいる。冬の修行はこれでなくっちゃ!私は伊深の道場で修行したので、毎年この15日からが臘八大接心で、素足から寒気が脳天に突き抜けるような痛さの感触を今でも覚えている。僧堂では矢張り大接心が一番良い。やってみた者でなければこの良さは解らぬ。もう50年近く前のことになるのだが、それでも昨日のことのように蘇ってくる。

投稿者 zuiryo : 20:25 | コメント (0)

2016年01月13日

勘考(かんこう)

岐阜では日常会話に「勘考」という言葉がよく出てくる。意味は、いろいろとよく考えてみる、ということで、それに近い言葉に、「勘熱」というのもある。こちらの方がもっと熱心に考えることを言うようだ。初めて聞いたときは変な言葉だな〜?と思ったが、これってなかなか良い言葉である。あの人は勘熱だから・・・と言うように使う。禅の公案の捻堤などはまさに勘熱の一語に尽きるとも言える。たった一つの公案に二年も三年も考え工夫し続けるわけだから、勘熱でなかったらとてもやってられない。修行は淡泊な性格の者は駄目で、ねちっこい奴が良い。それも常に一端は自分を捨ててかかる事が肝心で、「得ては捨て、得ては捨て」である。しかしこれはなかなか難しい。執着心があるからだ。いつでもさらっと捨てることができるようになれば、禅の修行は完成である。 

投稿者 zuiryo : 16:28 | コメント (0)

2016年01月11日

カエサルの言葉

ローマ時代の皇帝ジュリアス・シーザーの「人は自分が見たいと思うものしか見ない」という有名な言葉がある。向上心が人一倍あって、講演会や様々な催しにせっせと参加し、つねに自分を磨いている人が居る。にもかかわらず、その人の生き方や考え方はそれほどでもない。これは一体どういうことなのか?そんな時、冒頭のカエサルの言葉を想い出す。つまり良いとこ取りなのである。耳に痛いようなことは聞かなかったことにして、都合の良い部分だけを受け入れる。それで自己満足している人は大抵無意識にこれをやっている。虚心坦懐と言うが、真っさらな心で人の言葉に耳を傾け、一端は素直に受け入れる度量を持つことは、実は大変修行の居ることで、「自分を磨くこと」こそ重要なのである。

投稿者 zuiryo : 10:16 | コメント (0)

2016年01月07日

人は死ねばゴミになる

本は友人がこれ面白いですよ,読まれますか?と言って貸して下さるものか、アマゾンで、書評などを読み、これなら良いかなと思うと買う。当たり外れはあるが、ともかく最初数十頁までは読み、こりゃ駄目だと思うと止めることにしている。今度表題の本を買った。ある高級官僚が突然末期癌を宣告され、その闘病記である。この本を買おうと思ったのは題名にある。トップの大学を出て官僚のトップになった人が、ある日突然余命わずかと告げられたら、死ぬまでどう思ったのか大変興味をそそられたからである。読後の感想を端的に言えば、全くくだらない本だった。単なる闘病記で、こういう内容のものなら、なぜこういう題名を付けたのかまったく理解できない。人が必死に生きた証を残しておきたいと思うのは,素直に理解できるし、この記録自体を批判する気はない。私の兄もガンで、宣告を受けてから死ぬまでを,克明に大学ノートに記録していた。死後姉からその几帳面な闘病記録を見せてもらい、改めて兄を偲んだ。この高級官僚の場合、問題は何故こんなもったいぶった題名を付けたのか,又それを出版したのかである。公にして広く多くの人に読んで貰うような代物では無いのだ。この題名とは似ても似つかない内容だからである。失礼ながら死の間際まで肩書きを担いでいるという哀れさの方が、私には惨めに写った。人は死ねばゴミになると悟ったら、何故その題名に相応しい文章が書けなかったのだろうか。私のこの文をご親族の方が読んだら,なにをぬかしゃ〜がる、このクソ坊主が!と思われるかも知れないが、五十余年間、必死に禅の修行を続け、なお生の執着から抜け出ることの出来ないふがいない自分を見ながら、他山の石としたのである。

投稿者 zuiryo : 09:36 | コメント (0)

2016年01月05日

クロトチャイ

ずっと前からお寺に何となく住み着いてしまった野良猫が居る。こっちを見てはニャ〜ゴ!と鳴くので、可哀想に思って最近餌を与えるようになった。一端与え始めると、先方もそれを当てにする。今ではやらないと悪いような気になり、ついにはそれが習慣になってしまった。クロは真っ黒なのだが、よく見るとなかなか可愛らしい顔をしている。クロ!と声を掛けると、ニャ〜ゴと答える。そうした月日が経ってしばらくしたら,もう一匹、灰色に茶色の縞模様のネコがどこからともなくやって来るようになった。こっちのはチャイと名前を付けてやった。爾来この二匹のノラがうちの専属のネコになってしまった。この二匹を見ていると,ちゃんと高単と末単とがある。日当たりの良い高い位置には必ずクロ、チャイは隅っこ。クロの留守に上の日当たりの良いところに陣取っていたチャイも,黒が戻ってくるとさっと降りて隅っこに行く。まるで僧堂みたいだ。動物の世界にもちゃんと序列があるようで、たった二匹なのに、小さな社会が構成されてみたいだ。

投稿者 zuiryo : 19:24 | コメント (0)

2016年01月03日

初詣

今年の正月三が日は好天に恵まれしかも温かな日和で何よりであった。午前中に大般若祈祷、後は寝正月。時折信者さんが年始に見えるが,それもごくわずかで、のんびりと過ごした。今日は午後伊奈波神社へ初詣に出掛けた。境内はごった返すほどでも無く、スムースにお詣りもでき,いつものお札を頂き,雲水にお福餅を買って帰ってきた。お札は土地堂に納め線香を1本立てた。ところで帰り掛けふっと、おみくじを引いてみた。今までしたことが無いのだが、何となくそう言う気分になった。「末吉」だった。ささやかに願い事は叶う。学問は努力すれば実る。争いごとは負けるもよし。失せ物は出にくし。待ち人は遅いが来る。良く見極めれば,事うまく納まる・・・。ざっとこんなぐあい。まさにその通り、良いおみくじを引いたものだ。明日からは通常に戻り、又いつもの生活のリズにに成る。

投稿者 zuiryo : 16:00 | コメント (0)