« 2021年08月 | メイン | 2021年10月 »

2021年09月30日

ぼつぼつ、干支色紙書き

新年を二ヶ月後に控え、ボツボツ干支の色紙描きを始めた。と言っても千枚近い色紙を、一枚一枚書いちゃ~いられない。結局印刷という次第なのだが、その為の元を作る為の色紙描きである。元来不器用で、センスのない私だから、元作りに大汗かくと言う次第。この作業も年々しんどくなってきた。特に最近は常に頭がボ~ッとしていて、何だか変なのだ。こりゃ~いよいよ「認知症」だな~と思っている。トホッホッ!なのだ。しかしこの作業は、止めとこ~っ、と言う訳にも行かぬ。進むも退くも出来ず、間に挟まって、苦しいったら、ありゃ~しない。もっとセンスのいい人なら、私のように苦しまなくとも、スイスイやり過ごすことが出来るのだろうが、バカだからそれが出来ない。良くもこの馬鹿に80年近くも付き合ってきたものだ。

投稿者 zuiryo : 15:39 | コメント (0)

2021年09月25日

本山塔頭の老師さん来山

本山塔頭のR院の老師さんがお師匠さんの語録が完成しましたので、ということでお立ち寄り下さった。申し訳けないことで、恐縮至極であった。まっ、本当はS寺の関係なのだが、わざわざうちにまでお越し頂き、貴重な語録を頂いた。有り難いことである。お寺の世界の良いところは、このようにご縁を大切に思うことである。私などは現代っ子だから、目の前のことだけ追いかけているという具合で、恥ずかしい限りである。ところで話は変わるが、毎月2回の座禅会での話し10分が、窮地に陥った。もう枯渇して、一言も出なくなった。何十年間も続けてきて、大ピンチに陥ったのである。逆立ちしても鼻血一滴も出なくなった。ヤ~メタ!とケツ捲りたい心境だが、捲れないのだ。トホッホッ!そんな事、言ってる場合じゃないんだよ~っ!つうの。

投稿者 zuiryo : 15:07 | コメント (0)

2021年09月23日

人のふり見て我が振り直せ

兎角年を取ってくると万事に厚かましくなる。若い頃の謙虚さなど、とっくのとうにかなぐり捨て、・・これで何か文句あるけ~ッ!てなもんだ。人間こうなると、もう手に負えぬ。恥を知るなどと言うのは、毛の先ほどもなくなってしまい、ただ厚かましいだけ。まっ、こう言うのも人様のことを、言ってるうちは良いが、我が事となると、全く見えなくなるから、なお困る。私自身だって、いつこの罠に引っかかって、自分だけは良いと思っている、鼻持ちならない人間になっているかも知れないのだ。一日三度顧みると言うが、本当にそうだ。この謙虚さがなくなったら人間お仕舞いだ。

投稿者 zuiryo : 21:02 | コメント (0)

2021年09月22日

内観の法

これは白隠禅師が病を治すために始められた修養法である。心身をリラックスさせ、元気にする効用がある。この要点は下半身に心を落ち着かせることである。心が下半身に落ち着くと、気力が満ち、血液の循環が良くなり、呼吸も長く、深くなる。さて、この内観の法だが、段階を踏んで実習してみよう。椅子に腰掛け背筋をのばす。手のひらを上に向け、左手を下に、右手はその上に軽く置く。親指を交差させそっと握る。自然に出入りする呼吸を、深く静かに繰りかえす。次第に手のぬくもりが両膝、ふくらはぎ、足の裏にまでジ~ンと伝わってくる。やがて呼吸と心の落ち着きを感じて終わる。慣れてくるに従って、呼吸も深く出来るようになる。目は開けても閉じても構わない。所要時間はどれだけと言う事はなく、自分の気持ちにまかせる。繰りかえしているうちに、短く感じられるようになり、呼吸と心の落ち着きを感じて終わる。

投稿者 zuiryo : 19:37 | コメント (0)

2021年09月19日

愁うることを須いざれ、

鑑真和上のお言葉に、「愁うることを須(もち)いざれ、宜しく方便を求めて、必ず本願遂ぐべし」というのがある。私などはこの反対で、碌に努力もせずに、愁いてばかり居る。物事が思うように行かないのは、相手が悪いからだと・・・。この繰返しの人生に、幸せなど訪れはしない。我が身可愛いさでは駄目なのだ。自分にもっと厳しく・・・である。しかし言うは易く行うは難しである。この葛藤の繰返しで、今までやって来てしまった。もう老い先、短いのだから、ここらで目を覚まして、本来の自己に立ち返らなければ成らないと痛感する今日この頃である。

投稿者 zuiryo : 11:08 | コメント (0)

2021年09月16日

マイナス体験

マイナス体験が人格を作る。例えば不慮の事故で親しかった友達が死んだとき、カウンセラーなどが入って、なるべく早く切り抜けさせたりするのは、とても間違っていると思う。簡単に忘れてしまうことでも人間は傷つく。あんなに仲が良い友達が死んだのに、自分はこんなに回復してしまうのか、こう言う傷付き方だって人格を作ることがある。マイナス体験は実にものすごい豊かなものをもっている。寄り道とか回り道とか、何もしないでターゲットに向かって一目さんに走って行くと、早晩限界に行き当たる。友達とつかみ合いの喧嘩をしたり、そういうことのすべてがその人の情緒力になる。つまり回り道とか寄り道とか、ネガティブな経験のすべてが、長い目で見ると独創力の源泉になっている。普通に悩んで普通に泣いて、普通に喧嘩して、これが一番独創性に良いのである。

投稿者 zuiryo : 21:44 | コメント (0)

2021年09月12日

知人の死

知人が死んだ。個人的には色々お付合いがあったのだが、さりとて、とても親しく・・と言うほどでもないので、後から知りまして・・・と、わざわざお宅にうかがって、お悔やみを申し上げお経でも読んでと言うことも躊躇され、そのままになっている。こう言うのって、なかなか判断が難しいものである。大変温厚な方で、うちの定例座禅会の会員でもあり、また習字教室にもせっせと通われ、お稽古中のお喋りでも、多趣味な様子が窺われた。それで押しつけがましいところなど毛の先ほどもない、人間としての品性の良さが伝わってくるような方だった。大体こう言う方から先に死んで、あの野郎、トットト死にゃ~がれ!というような者は何時までもピンシャンしている。こんな事を言うと、ジャ~、俺は何時までも元気だから、人から恨み倒されているのかよ~っ!、と心配になるが、そういうわけじゃ~ない。兎角良い人ほど、惜しまれつつ早死にするものだということである。こう考えると人の一生は実にはかない。飯の上端(うわば)の湯気のようなもの、と良く言われるが、本当にその通りである。私だって、何時死ぬか解らない。明日かも知れないのだ。だから、悔いない人生を一日一日しっかり生きようと改めて思った次第。

投稿者 zuiryo : 10:23 | コメント (0)

2021年09月11日

話しに窮する

私がこの寺に入って間もなく、総代さんから、仲間を集めますから毎月2回坐禅とお話の会を設けて頂けませんか、と言われた。さして深くも考えずに、良いですよ!と引き受けた。ところがこれがとんでもないことで、爾来40年近く、毎月2回、坐禅指導とお話し30分の会が続いている。何が大変と言って、相手は殆ど同じメンバ~だから、わずか30分のお話が困る。今までに合計すると何百話、手を変え品を変え、何とか頑張って続けているが、これもそろそろ限界、毎回、七転八倒の苦しみなのである。今から思うと安易に考えて、お引き受けしたもんだと後悔している。しかし反面こうも思っている。人間は、元々怠け者だから、何もしないで良いとなれば、誰が努力などするものか。こう言う状況になって追い詰められるから、無い頭を振り絞って、頑張るわけだ。そう思えば、良いご縁に巡り会えたものだと、今では感謝している。こう言い巡り会いを大切にして、誠実に勤めることが何より大事なのだ。

投稿者 zuiryo : 16:43 | コメント (0)

2021年09月10日

パソコン操作

このブログからしてそうだが、パソコンの操作は未だによく解らない。使う機能はほぼ決まっているのでその繰返しで何とかなっている。今日も一寸新しいことをやろうとしたら何だか訳分からなくなった。そこでパソコンに達者な雲水に見て貰い、教えて貰った。どだいこのトロ頭では無理なのだ。いつも気を付けていることは見慣れぬキ~には触らないこと。便利な物ほど一寸でもルールに外れたことをすると、機械の方が怒って、言う事を聞かなくなる。くれぐれも余分なことはするな!である。その点人間の方は良い。雲水に、この耄碌ドタマで無茶苦茶言っても、ハッハ~!で通ってゆくから。人間にならこれで通るが、精密機械になればなるほど、言う事を聞かなくなる。時々パソコンを張り倒したくなることもあるが、それをやっちゃ~お仕舞いよ!

投稿者 zuiryo : 19:56 | コメント (0)

2021年09月09日

早くも年賀状

毎年年賀状には干支の絵を描くことにしている。来年は虎年なので、逞しい虎を描いてみた。あの縞模様が難しい。余り模様を強調すると、どうもイマイチ。色々やってみたが、納得のいくのは出来ないが、まっ、この辺で良いか!で手を打った。内緒の話だが、実は私には日本画の先生が裏にいて、様々ご指南を頂き、専ら先生に寄りかかっての絵なのである。全く地力なんぞではない!お陰様で真似力は向上した。しかし、実力はゼロ!自分で言うのだから間違いない。しかしそのお陰で、年賀状は毎年好評で、「・・能ある鷹は爪を隠す」ですね~なんぞと言われて、いやいや~!とそこんところは適当にうやむやにしてやり過ごしているというわけ。まだ9月だから、年賀状には早すぎると思うが、物事早いに越したことはない。これだから一年経つのは本当に早い。
   

投稿者 zuiryo : 10:38 | コメント (0)

2021年09月07日

野良のチャイちゃん

チャイちゃんは野良ネコで、いつからか毎食餌を食べにやって来る。毎日与えているので、先方もすっかり当てにするようになり、部屋の直ぐ近くでうずくまって待機している。野良とは言え体つきはふっくらとして、その待つ姿にも余裕が感ぜられる。ネコは犬と違って、喧しく吠えたりしないから、静かで良い。近くに行っても決して逃げたりしない。双方顔馴染みっつわけ。お寺は庭も広々として、近くを人が通ると言う事も余りなく、ネコの方も居心地が良いのである。自然にこちらも親しみが湧いてきて、ちゃいちゃん(茶色のネコなので)という名前も付けてやって、本人も幸せに暮らしている。食糧事情もそういうわけで十分足りているので、体つきもふっくらして、知らない人が見たらお寺の飼い猫と思うほどである。私も小さい頃、いつも家にはネコが居て、寝るときは布団に一緒にくるまって寝ていたので、ネコには特に親しみを感じるというわけである。その頃から遙かに時が経ち、またこうして野良猫と仲良しになると、不思議な縁を感じる。

投稿者 zuiryo : 10:58 | コメント (0)

2021年09月06日

諸行事中止

秋は何かと行事の多い季節で、遠路出頭する事が多い。まっ、殆どが毎年の定例行事なので、汗ふきふきしんどいな~!などと、愚痴こぼしながら出掛ける。しかし今年はコロナ蔓延中で、すべての行事が中止となり、暇ったら暇、こうも何もないと拍子抜けして、体のネジが緩んで、立ち居振る舞いも、ガタガタッつ、感じ。まっ暇ができて楽ちんなのは良いとしても、脳みそも緩んでスカスカになった。こう言うときこそ、おもたい本でも読んでスカスカな脳みそを鍛錬すれば良いのだが、そう言う奴に限って結局何もせず、ただ漫然と無駄に時を過ごす。それが今の私である。もう少し若かったときは、時間を惜しんでスカスカ能を、中身の濃い脳みそに格上げしなければと、それなりに頑張ったが、今や80才目前となり、ただ空気を吸って吐いてるだけ。向上心なんぞ、これっぽっちもありゃ~しない。無駄飯食ってボ~ッと生きてるだけなら、さっさと死んじまえ~ッ!なのだが、これがしぶとく食らいついて生きてるわけだ。困ったもんだ!

投稿者 zuiryo : 15:50 | コメント (0)

2021年09月03日

頭がパ~!

体の老化は相当前から進んでいることは、自分の動きを見ていれば自ずから解る。一方頭の老化はどうかというと全然解っちゃいない。自分では結構しっかりしていると思っている。これが大いなる間違いで、傍から見れば正真正銘の老いぼれ爺!ついこの間も,銭湯の大きな風呂から超老人が出た途端、フラフラッと来て、あわやぶっ倒れる寸前、近くに居た若者が抱きかかえ,大事に到らず済んだ。他人事ではない!明日は我が身である。どなたでもそうだが,自分だけはまだシャキッとして居ると思っている。そもそもそれが大間違いで、傍から見れば正真正銘のくそったれ爺なのだ。自分の顔は自分では見られないと同様、我が事にはメクラなのだ。汝自らを知れ!なんちゃって言うだけは知っているが、全然解っちゃいない。これが真実。これだから困る。ではどうすりゃ~良いんだよ~!決定的良い解決策はない。結果、傍に迷惑掛けながら、ヨロヨロと生きるより仕方がない。トホッホッ!

投稿者 zuiryo : 13:37 | コメント (0)

2021年09月01日

早や9月

暑い暑い!と毎日呪文のように唱えていたが、9月に入って急に心なしか涼しく感じる。気のせいかも知れないが、秋は其処までやって来ている。今日は午後から会計士さんが来て、お寺の会計の中間報告があった。全体的には例年通りで、格別変化はない。ただ言えることは私のドタマが著しく老化して、数字の羅列について行けなくなったことだ。まっ、副司さんが脇にいてホロ~してくれるので何とか務まっている次第。それより何より、老化老化と繰りかえすのが、既にパ~になった証拠。師家としては既に賞味期限切れで、とっくにお払い箱、ポイッ!と何処かに捨てられても可笑しくない!少々自虐的だが正直そう思っている。骨董品なら、その古びたところが味となるわけだが、生身の人間では厄介な、ただのクソ爺い!まっ、その自覚があるうちはまだ増しかいな!

投稿者 zuiryo : 14:59 | コメント (0)