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2017年08月31日

十人十色

人の性格は様々で、いきなり相手をガツンとやる圧力型タイプがあるかと思えば、万事に控えめで、じ〜と相手の言葉に耳を傾ける温和しタイプがある。どちらが良いかという問題ではなく、これは性格の違いである。ややもするとそう言う人間のタイプの方に気持ちが行って、あいつは良いがこいつは駄目だという評価をしがちである。しかし外に現れる部分より、その人が正しい見地を掴んでいるか、真っ直ぐな人生観を持っているかが重要である。近頃は我々僧侶の世界でも、外国へ行って禅会を開き、修行の指導をしてきたなどと言うことが一つのステータスのようになっている。別にとやかく文句を言う筋合いではないが、それよりも足下の日本の若者を鍛えて有為な人材を地道に育てて行くことの方が遙かに重要である。本当に修行したければこっちへ来てやれば良い。さて最も重要なのは真正(しんしょう)の見解(けんげ)である。苦と楽・善と悪・愛と憎、そう言う二元的対立の世界から、何ものにも束縛されない正しい生き方が出来ているかどうかである。そこに人間そのものの価値がある。真実この「無」が解っていれば、強いて求めなくとも自ずから行いが正しくなる。人に惑わされるな、地位や名誉に騙されるな、外観の何ものにも惑わされるな。何ものにも騙されぬ人になれ。これが臨済禅師の教えである。

投稿者 zuiryo : 07:55 | コメント (0)

2017年08月30日

茶会

お茶というと直ぐ京都を思うが、茶道が盛んなのは別に京都ばかりではない。主たる家元が皆京都に集まっているのでそう言うイメージになるのはしかたのないことだが、尾張・美濃地域も伝統的にお茶の盛んなところである。特に弊寺の信者さんの家には茶室があって、更に先祖代々受け継がれた茶道具の名器を数々を持っておられ、節目節目にはお茶会を催される。この春には御当主の米寿を祝って茶会が催され、名器、大名物が出てきた。と言われても、私はそうなんですか・・・でお仕舞いだが、目利きの方ならさぞ眼福なことだろう。さてかく言う私も来年は喜寿のようだ。早くもその方から指摘を受け、既に日程から道具組みに至るまですっかり整えて下さった。まったく頭の下がる思いである。以前はまるで無知で、お茶会に呼ばれては、その都度大恥を搔き、場数を踏むうち徐々に慣れてきて、今では不都合なく客になることが出来るようになった。どの道も経験の積み重ねが一番で、その為には大恥を一杯搔くことだと悟った。

投稿者 zuiryo : 04:40 | コメント (0)

2017年08月29日

不躾けな和尚

一面識もないある寺から本堂の格天井に墨蹟を書いてくれと言う手紙が来た。既に30数人の老師方にお願いをしたと言うことで、名前が列記してある。ついては貴方にも頼みたいというのである。始めから幾つ必要なのかは当然解っているはずで、頼むなら一斉やれ!俺は37番目の補欠かよ!頼んだが断られた人が居たので足らなくなって、あんたにも是非、と言うことだ。世の中には無礼千万な野郎がいるものだ。老大師にも是非加わって頂きたく云々と書いてあるのだが、わたしゃ加わりたくなんかないねと言って断りたいところだが、しぶしぶ承知した。まっ、目くじら立てて怒るほどのことでもないが。

投稿者 zuiryo : 21:42 | コメント (0)

2017年08月23日

茶道・華道修行

三十数年前、この寺に住職し立ての頃、ある会社の茶道部主催の茶会が催された。茶会の始まりに、まずは和尚さん是非!と言われるままに主席に坐らされた。お茶の飲み方も何一つ知らない山猿の私だったから、酷い失敗の連続で、人に言うのも憚れるほど、惨憺たる様だった。此処に登場するお嬢さんも、察するところ私同様の方で、だから母親から、そのずぼらでがさつな立ち居振る舞いを直すため、お茶やお花をやりなさいと喧しく言われていたそうだ。その方が後年ロシヤ語の通訳に成られ、日ソ交流の一環としてモスクワで大茶会が開かれることになった。この機会に自分も日本が誇る茶道のイロハを身につけようと満を持して同行した。この茶会は大成功を収め、気を良くした家元始め社中の一行は二度目のモスクワ行きを決意した。一度目に同行した通訳者に再び声が掛かったのだが、何と全員が断った。息を飲む優雅な装い、身のこなしなどはお手前の最中だけで、普段は一緒に居るのがいたたまれないほどずぼらガサツこの上ない人種だった。これが通訳した人たちの茶道のお師匠さん達に関する一致した意見だった。エルミタージュ美術館の後期印象派のホールのど真ん中でいきなり、水が飲みたいとだだをこねる等々・・・。あれは日本の誇りじゃなくて恥だわ!と言うのが通訳者達の一致した感想である。以上がある方の書いた文章だが、察するに、たまたまその会に集まった方々の例で、私の知る限りではそんな不作法な茶人は居ない。人も十人十色で、まっ、中にはそう言う非常識な人も居るという話である。

投稿者 zuiryo : 03:10 | コメント (0)

2017年08月21日

頭が良い

以前野良犬を飼っていたことがある。この犬は大変頭が良く、簡単な足し算なら直ぐに答える。例えば2たす3はと問うと、「わんわんわんわんわん」と5回吠える。周りの見物人は「キャ〜!あったまイーッ!」「わーウッソー!」ハチは周りの人から関心が寄せられるのに気を良くして、目一杯尻尾(しっぽ)を振って答える。このように、ほとんどの人は、犬や猫の頭の良し悪しを評価する際に、人間を基準にしている。ヒト語が理解できるとか、人間に言われた通りに行動するとか、人間に都合良く従順であるほど優秀だと思い込む。だから人間の言葉を理解しようとせず、寄り付きもしない野生動物は頭が悪いと思い込みがちだ。オオカミより犬の方が、山猫より家猫の方が、猪より豚の方が賢いはずだと。ところが考古学者の書いた本を読んで「嘗てはジャッカルが犬の起源説だったが、今は否定された。家畜化すると、野獣の7割くらいに脳の重さが減ってしまう。ところがジャッカルの脳はもともと軽いからイヌの祖先にはなり得ない。オオカミはイヌより大きな脳を持っている。こうしてイヌがオオカミからできたと言えるわけである。身の安全や日々の食事など根源的で切実な問題を自分の知能と体力をフル回転させて懸命に生きている野生動物の方が、その全てを人間に任せて、そのために頭脳も身体も使わない家畜よりも、脳が発達しているのは当たり前なのだ。それは人間についても言える。過保護で従順な人よりも、独立独歩自力で生きる人の方が脳を使わざるを得ず、それだけ脳も優秀になるはずである。

投稿者 zuiryo : 04:43 | コメント (0)

2017年08月20日

怠惰と勤勉

はるか昔から同じ条件のもとに置かれながら、勤勉な性格と怠惰な性格の人間が出来る。何故なのだろうか?フランス一を誇るサボイ地方の人々の勤勉さは、気候風土の厳しさ、生活条件の困難さがもたらしたものだと言われている。満ち足りていないことこそ、人を懸命に努力させ、頭と肉体をフル回転させる最良の教師である。三重苦のヘレンケラー、アルバニヤの極貧家庭に生まれたマザーテレサ、学校を劣等生で中退したエジソン・・・・偉人たちの伝記を読むと、当に真実を裏付けるような、マイナスをプラスに転じていく生き方の見本に充ちている。不足こそが活力の源になっているのだ。僧堂の雲水修行も、当にこれで貫かれている。朝は午前3時半起床、座禅、勤行、三度の食事にしても、朝はずるずるの麦粥、昼と夜は麦飯・味噌汁・沢庵だけ、それで日中の作務は山へ分け入り雑木を切り薪を作る。三日に一度の割合で野を越え山を越え延々托鉢に出る。18世紀のフランスの哲学者ルソーはこう表現している。子供をスポイルするのは簡単だ。「彼が欲しがる玩具を全部買い与えてやるが良い」と。何だかモノに溢れる21世紀は、私達のことを言われているようで、ゾ〜ッとする。

投稿者 zuiryo : 11:12 | コメント (0)

2017年08月18日

尚志寮

私が小僧をしていた京都のお寺では、嘗て当時の住職がお寺の息子を小僧として預かり、大学までやって、僧堂に掛搭させて、然るべき處へ住職させる。また一般家庭の子供を預かり大学までやって何処かへ就職させる。多い時には十人近くも預かっていたのだから並大抵ではない。こういう育英事業をずっと続けていた。それらの費用は全て寺で負担していたのだからさぞご苦労だったと思う。お寺自身に全て賄える収入があったわけではないので、いろいろな方々の支援を頂いていた。それも全てこう言う志の高さゆえの協力であった。私が小僧として入ったときは既に住職は変わり、また社会情勢も年月を経て変化し、そう言うシステムはなくなっていた。たまに当時お世話になった方々が訪れ、昔話に花を咲かせ、往事の様子が偲ばれた。ざっくり言わせて貰えば、それほどまでのご苦労も余り報われないな〜と言うのが率直な感想である。人のためにすると言うことは、大体そんなものなのだろう。そう思っていたところ、最近その育英事業でお世話になったある方が、那須でアジアの若者のために農業指導をし、国へ帰ってから自立できるように指導をしており、見事に老師の意志を継いでおられることが解った。既に95歳の高齢ながら、今なお頑張っていて、一大社会事業に発展しているのである。この話を老師が聞かれたらどんなに喜ばれるかと・・・。先日お墓参りに来られたそうである。

投稿者 zuiryo : 18:41 | コメント (0)

2017年08月10日

フィンランド旅行

11日から1週間ほど姪っ子夫婦と3人でストックフォルム・ヘルシンキへ行ってくる。本当はヨーロッパの何処かと考えたのだが、近頃の物騒な事件が続くと、ちょっとためらった。一番安全そうな処と言うことで此処に決めた。よく調べてみると余り観光的にはコレッ!と言う所はなさそうだが、多分相当涼しそうなので、避暑にはなる。偶然テレビを見ていたら、フィンランドには伝統的に独特なサウナがあるそうで、100℃くらいの熱い中でじっと我慢、それから湖にドボン!これを是非やってみたいと、今から楽しみにしている。それから皿や壺など陶器類に、日本では見られないようなデザインのものがありそうなので、これを物色するのも楽しみである。ただ延々長時間飛行機にゆられるのがしんどい。時差も調子が狂う。なら止めときゃ良いじゃないか、と言われそうだが、まっ、しばし気分転換である。

投稿者 zuiryo : 10:33 | コメント (0)

2017年08月09日

平和祈願像

いつも山歩きをする登り口に台座が約2メートルほど、その上に天を仰ぎ見る少女の像がある。これが平和祈願の像である。台座の裏側に刻まれた文字を読むと、昭和20年8月7日、豊川工廠に学徒動員で勤労奉仕していた少女約1500人が、米国の爆撃を受けて全員死亡した。あと1週間早く終戦になっていればこれらの少女達の命は助かったのだ。私が岐阜へやって来た35年ほど前、この像の横から山登りをしていたのだが、毎日腰の曲がったお婆さんが綺麗に掃き清め花を飾って拝んでいた。しばらくぶりにそこへ行ってみると、辺りは草ボウボウ、落ち葉で埋もれて、花一つ飾る人は居ない。8月7日は命日だからどなたか関係者の方でもお参りして花でも飾ってあるのかと思ったが、全くその気配もなく、周囲は落ち葉と草で覆われ、ほったらかしであった。あのお婆さんも既に他界され、この少女達を偲ぶ人も居なくなったのだろう。それから私は山登りを始める時、この像の前で毎日供養のお経をあげることにした。たった数十年の歳月でこんなにも忘れ去られ、顧みる人もないのかと思ったら何だか悲しくなった。

投稿者 zuiryo : 19:06 | コメント (0)

2017年08月08日

台風一過

のろのろ台風、しかも岐阜近辺直撃、こりゃ〜大変!と言うわけで寺中の雨戸を閉め、万全の態勢を整えた。しかし風の方は予想より弱めで、雨もさほどでもなく、無事通り過ぎた。朝から何十枚もの雨戸を元に戻す。平生使わないので滑りが悪いったらありゃ〜しない、ガタガタ押したり引いたり、大汗搔いた。午後いつもの裏山歩きに出掛けた。山路は風で吹っ飛ばされた小枝や葉っぱがわんさとあって、歩くのも大変だったが、爽やかな風が吹き抜けて、気持ちよかった。近くの町では竜巻が発生して、民家の屋根が吹き飛ばされたり、大きなトラックが横倒しになった。湿った空気が運ばれてきたせいか猛烈に蒸し暑い。我が家のノラクロもお寺で一番涼しい木陰でごろんと横になっていた。

投稿者 zuiryo : 21:33 | コメント (0)

2017年08月07日

制間

8月1日から制間になる。9月15日までは入れ替わり立ち替わり雲水は暫暇をとって自坊に帰る。その間は更に人少に成り残った者はなかなか忙しい。まっ、これも恒例でお互い様、毎日忙しい思いをもして、クリクリ働かなければならないが、僧堂内の雰囲気もちょっと変わって、これも良いものである。今夜は台風接近で寺じゅうの雨戸を閉めて強風に備えた。閉める雨戸も多く大変だが、何とか無事に通り過ぎて欲しい。こういう時は樋の具合や排水が良いのかどうか調べるのには良い機会で、寺じゅうぐるぐる回って点検した。大きく不都合なところもなく一安心。

投稿者 zuiryo : 19:05 | コメント (0)

2017年08月06日

花火大会

岐阜では7月下旬と8月上旬、ほぼ同じ所、長良川河畔で大花火大会が行われる。ひとつ目の1週間後に同規模の花火大会があるのは無駄ではないかと言われているが、見物する方は二度も楽しめるので大喜びで、岐阜の夏の一大イベントになっている。昨夜は制間になったので午後7時から歩いて雲水達は花火見物に出掛けた。大混雑だそうだが、天空高く上がる花火は前の人の頭が邪魔になって見えないと言うことはない、何処でも見られるのが良い。うちの寺から少し歩いた大通りの交差点でも真正面に見えるのだが、此処の欠点は、青信号の時、横断歩道の真ん中で見て、赤信号になったら歩道に駆け込み、また青信号を待つという具合で、なかなか忙しいのが玉に瑕。もう一つ花火の良いのは入場料を取られないことだ。沢山の企業が協賛金を出しているらしい。知人で協力している方がいて、見返りに特別席で腰掛けて悠々と見物でき、更に始まる前にはホテルで夕食まで出るらしい。お寺は頂く方は得意だが出す方はまるで駄目。だから暑い中突っ立って汗をふきふき見物となる。

投稿者 zuiryo : 09:41 | コメント (0)

2017年08月04日

夏休み子供坐禅会

毎年恒例行事で、一日子供座禅修行がある。朝から静かな境内に甲高い子供の声が響き渡り、僧堂のいつもの雰囲気とはまるで違う。座禅以外のお世話は先方の父兄が何人か来て面倒見てくれるので、こちらは専ら座禅指導だけ、小さい子供が真剣な顔つきで坐禅を組む姿はなかなか良いものだ。一般の寺と違って本格的な禅堂(第二禅堂)で坐るので雰囲気が違う。腕白小僧もさすが結構真面目な顔つきである。7月には近くの私立中学校が毎年の行事で、3組に分かれて坐禅を組みに来る。もうこれも随分長く続いている。平生は門戸を閉ざし立ち入り禁止だが、こういうことで少しは世間の人のお役に立てるので、こちらも有り難いと思っている。

投稿者 zuiryo : 11:54 | コメント (0)