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2018年03月30日

下り坂であわや・・・

毎日の裏山歩きは私の日課、昨日も例のごとく登り始めた。猛烈な暑さで大汗かいた。まっ、それは良いとして、帰りの下り坂、あっと思った瞬間、突如足がもつれて、前のめりにつんのめった。あ〜〜っ!一巻の終わりと観念したとき、最後の右足で辛くも体を支え難を逃れることができた。あ〜!よかった〜!そう一息ついて数歩、またまた足がもつれて前のめり、それも何とか持ちこたえて、一安心した。寺に戻って考えた。こりゃ〜相当俺はジジイなんだ。そこで今日からは登山用のストックを片手に登り、下った。昨日のヒヤリッ!があったので杖にしがみ付くように下りた。お陰で何も問題なく安全登山ができた。年寄りの冷や水と言うが、自分が思っている以上に足の筋肉も老化して弱っているのである。分をわきまえて行動することが何より大切と痛感した。

投稿者 zuiryo : 20:59 | コメント (0)

2018年03月27日

法話

仕事柄たまに法話をお願いしますと依頼されることがある。説法はお坊さんの大切な仕事のうちの一つと言うふうに一般では思われている。確かにその通りで、本山では特別に訓練した人を全国に派遣するというシステムが出来上がっている。そして広く一般信者さん方に教えを広めていく。その論法で、僧堂の師家ならそういうことをひっくるめてお坊さんの大将なのだから、より有難い話が聞けるだろうと思うのは、大いに間違っている。他の宗派ではどうか知らないが、禅宗の場合は、師家になるような修行ばかりをせっせと続けてきた者ほど、はっきり言って、話はへたっぴーである。良い話を聞きたいなら、専門的に訓練し、厳しいテストも合格した、いわゆる説教師さんに頼むのがいい。○○専門道場師家○○老大師、などと言う肩書で頼むのが大間違いのもとである。まっ、中にはその方面に才能があって、大いに受ける方もいるが、それは特別な人で、一般的にはへたっぴ〜!と思ったら間違いない。では話がへたっぴ〜なら、その○○老大師は禅僧の指導者として駄目人間かと言うと、そんな因果関係は全くない。この辺の認識の違いが、まったく困ったことなのである。というわけで、そういうとばっちりを受けて、私の所へも、何かお話を・・・・、と言ってくる。寺の和尚がお話をさせて頂くのは、当然の仕事だから、ハイハイ!と一応受けるが、本音を言えば、この認識の違い、何とかならんだろうかといつも思っている。

投稿者 zuiryo : 10:35 | コメント (0)

2018年03月26日

ホケキョ

梅も散って、桜の季節に合わせるかのように今朝鶯が鳴いた。鳴き始めはいつものことだが、ほ〜ほけきょ!とはいかず、元気いっぱいにケキョ!ホケキョ!、聞いてるこっちが口笛で、ほ〜ほけきょ!とやった。毎年この鶯の声を聴くと、春だな〜と思う。そのうち庭中、あっちこっちで、囀りだすと、少々賑やかすぎるな〜などと思うようになる。酷寒の冬が過ぎて、暖かな春風になると、何となく心も弾む。四季の変化の有難さを感じる。日本人にとって四季の移ろいは当たり前で、だから何だと言うの、てなもんだが、年中小寒くて、どんより曇っていて、時折しとしと小雨が降るなんて言う国で過ごしたら一辺にノイローゼになっちまう。山紫水明に恵まれた国土の有難さは勿体ないくらいだ。ただこれで地震と台風がなければ良いのにな〜、といつも思う。千年の間に震度3が1回あっただけなんて言う羨ましい国もあるが、一方でこれじゃ〜ね〜。何事もすべて良しと言うのはないものなのである。鶯の澄んだ声を聴きながら、色々あるけれど、やっぱり日本が良いな〜と思う。

投稿者 zuiryo : 09:59 | コメント (0)

2018年03月25日

似非宗教(えせしゅうきょう)

信仰を持ったからと言って、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることはない。もしこの宗教を信じれば背負った荷物が軽くなるとか、距離が近くなると説く宗教があるとしたら、総じて似非宗教である。こんな簡単な原理を解っていながら、溺るる者は藁をも掴む。傍から見ていても相当な人格者と思われる人でも、似非宗教にはまる。これはどうしてだろうか?一つは平生から本物の宗教家に接していないからである。弱った心で右往左往し、藁をつかんで一緒に沈むことは分かっていながら、その藁をつかむ。またそういう心の弱っている人を見つけては、法衣をまとった詐欺師がすり寄ってくる。こういう悪にはめ込まれ、財産すべてを失った人を知っている。平生いくら健康に気を付けていても、うっかり風邪をひいてしまったり、胃腸を壊したりするのと一緒で、他人ごとではない。いつ今度は、自分がその目をみることになるか分かったものではない。そうならないために、いつもホームドクターに自分の体の管理を頼むと同様に、心のホームドクターになってくれる、間違いのない宗教家としばしば接しておくことである。private religionist である。何事も平生が大事なのである。 

投稿者 zuiryo : 13:19 | コメント (0)

2018年03月24日

花見

梅の花も終わって、これからは桜の花見である。東京ではすでに満開のようで、花の下で酒盛りに興ずる例年の行事で盛り上がっているようだ。遥か昔どういう事で出かけたのか忘れてしまったが、東京の千鳥ヶ淵の夜桜は見事だった。岐阜市の近くで言えば境川堤の桜並木も良い。淡墨桜は千年以上の巨木でつとに有名である。その外寺尾の堤桜、高山の臥龍桜等々、上げたらきりがない。うちの寺でも改築前は何本か桜があったが、改築の時全て切ってしまった。今頃になって,矢張りこの季節に桜が見られないというのはなだか寂しい。そこで一昨年、般若会坐禅30周年記念樹に3本桜を寄付してもらい、山門横に植えた。それが花をつけてぼつぼつ咲き始めた。日本人はやっぱり桜を見ないと春が来ない。多分この3本も私が死んで何年かしたらお寺の名物になるだろうと想像して喜んでいる。

投稿者 zuiryo : 20:22 | コメント (0)

2018年03月21日

まるで梅雨

このところの天気は一体どうなったんだろうか!まるで梅雨時ではないか。毎日やけに冷え込んで、しとしと雨、一端仕舞いかけた肌着を真冬用に戻した。寒の戻りである。暑さ寒さも彼岸までと言う言葉もどこか空しい。従って毎日の裏山歩きも出来ず、屋内スポーツジムでくるくる回転するベルトの上で歩く。これでも一応運動にはなるが、足・膝関節などの、いわば蝶番の部位が痛み出す。原因は機械の上だから全く同じところを繰り返し使う事になるからで、つまり不自然なのだ。あらゆる事柄で、最も大切なことは「自然」であること。例えば山歩きなら、道は凸凹、傾斜もまちまち、登ったり、下ったり、今は秋に散った葉がいたるところ積もって、うっかりすると足を滑らす等々、2千歩歩いたとすると、2千か所、微妙な違いを使って歩いたことになる。だから膝が痛まずに済むのである、と私は考えている。

投稿者 zuiryo : 11:30 | コメント (0)

2018年03月19日

川浦(かおれ)渓谷

親戚の者が来たので、近年夙に有名になったモネの池を見て、それから奥地の川浦渓谷行った。ここは数年前、画家の先生と我ら不肖の弟子二人でこの渓谷のスケッチに出かけた。当時は山沿いの道は崖崩れで巨石がゴロゴロ、危険進入禁止の札を横目に奥へ侵入した。しばらく進むとあずま屋があり、そこから深く切り込んだ渓谷と激しく流れる川を描いた。ようやく完成し、3人でスケッチブックを立てかけ見ると、何と!谷底の激流が華厳の滝になっていた。???こりゃ^一体どうしたことだ!何回見ても谷底の激流には見えないのだ。解ったのは、切り込む断崖絶壁がうまく描けていなかったのだ。失敗失敗!でとぼとぼ帰った。今日の渓谷は周辺にまだ雪が残って、冷たい風が吹き抜けていた。ふと当時のことが蘇り、思わず笑っちゃった。

投稿者 zuiryo : 15:45 | コメント (0)

2018年03月16日

下手上手(へたうま)

今年も例年のごとく干支の色紙を描いて知り合いの方々へ差し上げた。戌年なので、一枚は一匹の白黒ぶちの戌、もう一枚は白と黒、二匹の犬を描いた。おおむね二匹の方が好評で、一匹の白黒斑のはイマイチ。ところがある人から白黒斑の方を絶賛された。何故〜?と尋ねると、目が生きているという。ふ〜ん、そう。また他の人は、どことなく老師に似てますよ!という。そう言われて改めてよく見ると、な〜るほど、そう見えなくもない。昔から格別親しくしている方は、「これって、ヘタウマですね」だと。いろいろ言い方があるものだ。こういう干支の色紙は一端始めだしたら止めるわけにいかない。毎年秋風が吹くころになるとだんだん気が重くなる。まっ、少しでも喜んでもらえれば、こんな有難いことはない。

投稿者 zuiryo : 20:23 | コメント (0)

千日聞き流せ

昔、法隆寺で高僧佐伯定胤師が唯識という大変難しい講義をされた。仏教思想の中でも最高の思想と言われる唯識とか倶舎理論を教えておられた。この講義には志ある若い僧が集まった。中にどこかの地方からやって来た若い学僧がいた。雨の日も風の日も1回も休まず、全身を耳にして佐伯さんの講義を聞いていた。予習も復習もしてて、一所懸命学ぼうとした。しかし佐伯さんの説く仏教思想の核心の所が十分に理解できない。ある時佐伯さんのお前へ出てきて、「実は今日はお別れに来ました。私は毎日自分なりに先生の講義をうかがいましたが、私には才能がないらしく、お話の内容が理解できません。こういう学問には向かない人間だと思いますので、田舎へ帰って畑でも耕しながら、寺を継いで生きていきます。長い間有り難うございました。」佐伯さんはじっと聞いた後で、ポツンと一言、「千日聞き流せ」と言われた。それはこういうことである。仏教とは知識ではない。大事なことは毛穴からしみ込んで伝わる。だからわからなくとも、じっと私の話を聞くがよい。佐伯さんに励まされた若い学僧は、気を取り直して講義を聞き続けた。仏教などの一つの思想や学問に大事なことは、理論だけではない。人間の魂のありよう、あるいは情熱、人間の至心(まごころ)、そういうものが伝わることが大事なのである。意味が分かろうが解かるまいが、ただその肉声だけを聞け!顔の表情、声、そういうものを感じていくことが、人間にとって大事なものなのである。

投稿者 zuiryo : 04:49 | コメント (0)

2018年03月13日

長期休暇

2月7日以来、約1ケ月少々、ブログ更新なく、友人より指摘されてしまった。言われて初めて気が付いたという次第。僧堂は2月1日より制間に入り、すっかり身も心もぶっ弛んだというわけ!さて3月2日より1週間、恒例の断食道場へ行ってきた。今回は人少で、参加者は5人、一人部屋でゆったりと過ごせた。やたら頭が冴えわたり、パソコン持参で、坐禅会用の原稿10日分一気に出来上がった。何せ一人っきりだから話す相手もなく、しかも断食のお陰で普段よりいっそう頭の回転が良くなり、かくのごときの成果となった。毎年の例で行くと、ドタ〜と寝ころんっで怠惰に過ごす。まっ、断食はこれでいいわけなのだが、今年に限っては、こうなった。ただ寺に戻ってから胃腸の調子が悪かった。断食の挽回とばかり大食いしたのがいけなかったようだ。体重は5キログラム減で、大いに気を良くしたのもつかの間、あっ!と言う間に75圓北瓩辰討靴泙辰拭

投稿者 zuiryo : 06:50 | コメント (0)