1998年4月 汝自らに問え
 
 俗に”鰯の頭も信心“と言われるように、宗教には大なり小なりこういう側面がある。信ずるものは救われるで、人様から見れば何んで?と思うようなことでも、心から信ずる人にとってはそれで安心を得ているのである。これを笑うことは出来ない。一口に安心を得るといっても、非常に個人的色彩の濃いものであって、百人居れば百通りの安心の場があると言える。
 しかしそれが本当に鰯の頭なら他人を害することもなく、そう言うこともあるのかで済まされるのだが、もしその論理を無制限に拡大していって、しまいには世間の法律や倫理を悉く無視し、ついには邪魔者は無用とばかり、やりたい放題やったら周りの者は大変な迷惑を蒙るわけで、そんな宗教が世の中の人に受け入れられる筈もなく、又こういう反社会的活動をすれば世の非難を浴びるのは必至 である。
 ここで問題なのは社会的普遍性が全く無いことである。自分たち仲間内の限られた枠内だけに通用して他には全く通じていない。世間の一切の批判に目を閉じ耳を塞いでひたすら自分たちだけの論理に埋没して行った時、やがて悲劇的結果になるのは当然のことと言わざるを得ない。
 更にもう一つ、宗教には奇跡を起すとか、或いは人には出来ない神通力のようなものを持つことが出来ると言うような期待をする側面がある。心の弱さに打ち拉がれた者は皆、どういう方法でも良いから今直ぐ苦境から救って欲しいと願っていて、そんな時に自信をもって無条件で即座に丸ごと助けると言われれば、藁をも掴みたい心境なのだからつい頼ってしまう。ところが凡そ宗教にはそんな便 利な特効薬はないと言っていい。お経をあげれば即ご利益があるなどと思ったら大間違いで、お経そのものには何にもないのである。もし何かご利益があるとするなら、それは一心に祈るあなた自身に起因するもので、祈りてもしるしなきこそしるしなれ、祈る心に誠なければ≠ニ道歌に有るように、自分の心の問題は自分自身の力で克服して行く以外に救われる道はないことを知るべきである。
 さてよく私は無宗教です。≠ニいう人 がいるが、人間は何らかの宗教に依らなければ生きてはゆけない。宗教に頼らなくても何の不都合もなく生きていると豪語する人でも、実は無意識のうちに宗教を持っているのだ。何ごとのおわしますかは知らぬども忝さに涙こぼるる♀Fさん方も一度は奈良や京都を旅して神社仏閣を参拝されることがあったと思うが、境内やお堂やその中に祀られている仏像を拝んだ時、何か理由はよくは分からないが心和み落ち着いた気持ちになった覚 えはないだろうか。私は毎日山歩きをしていて、折り返し地点が神社なのでいつも柏手をし、お参りして帰ることにしている。この神社のご神体が何で、神道の教義はどうなのか全く知らないが、手を拍ちお参りすることで不思議に心が爽やかになる。つまりこれは何宗のどういう教義だから有りがたいと思って手を合わせているのではなく、むしろ自分の心の内なるものに向って手を合わせていると いえる。
 元来日本人は皆共通してこういう気持ちを持っている。これをある仏教学者が天然の無常観≠ニ言っていた。このような日本人特有の無意識の宗教観は西洋の宗教に比べて劣っているとは思えないが、しかし非常に純粋培養されている為に外敵に簡単に侵されてしまう危険がある。現代社会は人の弱みに付け込む者が隙あらば鵜の目鷹の目で獲物を狙っている。だからうっかりしているといつ自分もその被害者になるか分からないのが現状だ。ではどうすれば良いかというと、各自自 分の宗教観というものをはっきりした形で認識しておく必要がある。自分はどういう宗教の何を拠り所にして生きてゆくのか、きちんと見極めることの出来る宗教教育を、これからは何れかの年令の時にしておかなければいけないのではないかと思う。

現況では教育に宗教はタブーといった風潮で、一切触れないのが良しとされているが、人間が生きて行く上で必要なのは、読み書き算盤だけではない。心の問題を抜きにしては絶対に成り立ち はしないのだ。しかしその重要な部分は欠落したままであり、それは丁度承知の上で手抜き工事の建物を作っているようなもので、そんな建物には危なくてとても安心して住んでは居られない。多くの優秀な人材があのように脆くも悪魔の虜に成り果てて、幾多の罪を重ねてゆく姿は哀れという外はなく、我々はこのまま唯手を拱いて傍観しているだけでは済まされないと思う。人の痛みは百年でも 我慢出来る。“と言うが、今回のオウム真 理教のような事件を決して余所ごとにせず、自分の心の痛みとして受けとめて欲しいと願っている。

 

 

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