1998年3月 般若の智慧
 
 近年、とみにきれいな水への関心が高まりつつある。水は電気やガスと共に毎日の生活に欠かすことの出来ないものであり、まして直接口にするものだけに健康問題と合せ一層世間の高い関心を呼ぶのである。
 そこで登場したのがミネラルウォーターである。どこそこの谷川の水とか何々山の水とか、果てはわざわざ外国からも輸入している。たかが水とは言えぬ、今や一大市場になっているのである。
 ところが最近、そのきれいで安全だと思われていた天然水に何やら浮遊物が発見されて大騒ぎになった。そこで急遽何十種類も販売されている水を徹底的に調査したところ、プラスチック片が混ざっていたり、かびや細菌まで検出されたという。きれいな水の象徴と思われていた天然水に、実はいろいろな混入物が見つかったというので大いに問題になった。特にヨーロッパから輸入された水からは 細菌が多く検出されたというので直接製造元にその旨問い正したところ、社長日く「自然の水に多少細菌が混ざっているのは当たり前で、天然水というのはそう言うものなのだ。第一我々は細菌の真っ只中で生活している訳で、無菌でなければ駄目だというなら、今直ぐ呼吸をやめてしまいなさい!」と言い返されたということだ。
 一方日本では食品衛生法によって例え天然水であろうとも必ず加熱処理をしなければ販売してはならないことになっており、細菌が検出されることはまず無いそうだ。しかし外国から見ると天然の水に加熱などといった人工的な手を加えたら、もはやそれは天然水では無いという考え方だそうだ。多少の細菌が検出されたぐらいで目くじら立てなさんなと言うわけである。
 さてこの話を聞いて私はふっと人間の心もこれと同様だと思った。生まれたときは無垢の状態で、一切雑菌には侵されていないが、おぎゃーと一呼吸した途端に生まれ子のしだいしだいに知恵つきて仏に遠くなるぞ悲しき″心はどんどん汚れてゆく。純真で可愛いかった子供も、五、六才にもなれば憎まれ口をたたいたり、親に反抗したりである。ましてや大人になれば妄想、煩悩、利害損得、金欲、物欲等、次々と欲望の虜になってゆく。 生まれた時のミネラルウォーターはすっかりかびや細菌の巣に成り果ててしまうのである。とは言うもののかびや細菌の真っ只中を離れて我々の人生はありえないのであって、そんなに汚れるのが嫌なら今直ぐ呼吸を止めて死んでしまえということになる。では諦めて汚れるに任せて居れば良いのだろうか。しょせんはこんなものだと高を括って一生を終わるのも一つの生き方かもしれないが、それで はどうしても満足いかないという人も中には居る。
 こんなことを考えていた或る時、丁度テレビに一人の農民作家の老婦人が出演していた。彼女は百姓の家に生まれ、本来家を継ぐべき長兄を戦争で失い、図らずもその兄に代わって家を継ぐことになってしまった。農作業、育児、炊事洗濯などの家事に追われて、朝は朝星夜は夜星の毎日だったという。今では農作業も機械化されて随分楽になったが、当時は泥田圃を這いずり回る苛酷な労働であっ たし、その上主婦には家事労働が加わる訳で休む暇なく牛馬の如く働いたという。昔は百姓は馬鹿で能無しで、他に使いものにならない者がやる仕事、そう世間からは思われていた。そんな報われない日々の生活は心をぱさぱさに千涸びさせ、将来への夢も希望も失わせていった。ただ真っ黒けになって働くだけという毎日が何十年も続いていた。そんな或る日の 夏の早朝、庭先にある井戸で顔を洗い何気なくふと見上げると、藤の花が満開に なっており、一雫の水滴がポトリと下の池に落ちた途端に、その小さな雫は波紋となり静かに大きく広がっていった。何と美しいことか!これを見た彼女の心に何かがパッと閃いた。私はこんなにも美しい大自然の中で毎日生活していながら、どうして今迄この美しさに気付かなかったのだろうか。田畑での農作業は大地と一つになって生命の恵みの中で生きるということ、それをただ泥にまみれた惨めなものとしてしか見ることが出来なかっ た自分は何と情けない人間だったか、その時初めて分かったという。

それからというものは一転して見るもの聞くもの悉く感動の毎日となった。何とかこの気持ちを人に伝えたいと考え、詩を作りエッセイを書き、ついには小説まで執筆するようになったというのである。
 私は何と素晴らしい人かと思った。苛酷な労働と世間の冷ややかな眼にも挫けることなく、何十年間も其実の心を追い求めて止まなかった彼女の純心さは、決して泥にまみれることはなかったのだ。当に彼女は般若の知慧を得た人に相違ない。

 

 

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