1998年5月 創造の病

 
 或る日突然私の寺の山内の和尚が失踪した。家族は勿論のこと、山内寺院一同思いも掛けぬことに驚愕した。必至の捜索も虚しく、やがて一年が経ちお互い気には掛けながらも次第に諦めムードが漂い始めていた頃、或る人が偶然川原の草叢の中に白骨化した死体を発見、本人に間違いないと判明した。何処かで生きていて欲しいという周囲の願いも虚しく不幸な結果になってしまった。彼は何故失
踪する羽目になったのか理由は皆目分からない。
 人は誰でも五十才を過ぎて人生の折り返し地点に差し掛かると、ふと今迄の自分を振り返り、本当にこれで良かったのだろうかと思い返すことがある。例えばそれがサラリーマンなら、それ迄は朝ぱっと起きてすーっと電車に乗って出社していたのが、会社へ行ってもどうせ面白くもないというので、突然反対方向の電車に乗ってみたい思いに駆られる。こういう悩みを抱えている人が特に中高年の
サラリーマンには多いらしい。
 昔は人生五十年で、生まれて頑張ってお迎えが来てそれで済んでいた。ところが今や人生八十年、生まれて頑張ってそれでも直ぐにはお迎えが来なくなった。一つ山を越えて更にもう一つ山を越えなければそう易々とは死ねないのである。この一つ目の山と二つ目の山の間には人生の転換期があって、人によってはこの落し穴にすっと落ち込み、旨く二つ目の山を乗り切れない場合が出てきたのであ
る。寺の和尚とサラリーマンとでは又事情が違うかも知れないが、こんなことが心の中に有ったのかもしれないと思う。
 さて話は変わるが、私の友人で小さいながらも会社を経営している男がいる。はじめは倉庫の片隅に衝立てを立てただけの事務所だったが、やがて周囲の信頼を得、思いも掛けぬ援助者も現われ、小さい乍らビル一棟をまるまる借りることが出来るまでになった。.親などからの資力の助けもない無一文からの出発だったから、此処まで来れたのは偏に彼と奥さんの其面目な努力の結果である。それからと言うもの益々仕事に精を出し、世の
中の好景気にも支えられて業績も順調に伸ばした。そんな折りひょんなことから手に入れた土地が周辺の宅地化と共に思わぬ値上がりをして、ついに事務所と自宅を新築するまでになった。
 ところで彼は借家住まいの頃から趣味でお茶の稽古をしていた。子供の入学祝いや家族の中での何かの節目節目には狭い部屋を茶室に見立てて、ささやかながらも心の籠もった一服の茶をたてて楽しんでいた。茶道と言うとすぐ形にとらわれ、折角のお茶も余り日常生活には生かされていない例が多いが、彼の茶道はしっかりと日々の生活に根付いたものであった。「子供達は堅苦しいと言って余り喜ばないんですが、例え親子でも節目の折
りにはきちんと親の気持ちを伝えておかなければいけないと思いまして、それをお茶に事寄せてやっているんですわ。」と言っていた。とかくずるずるべったりに成りがちな親子関係だが、このようにけじめを付けている彼の父親振りには成る程と感心させられた。多分そんな深い思い入れがあったのだろう、新築成った彼の自宅は数寄屋造りの上、本格的な茶室までしつらえたそれは素晴らしいものであった。
 それから数年が経ち、世の中の景気が俄然悪くなり始め、彼の会社も否応なくその波をかぶっていった。それまでは夫婦力を合わせ何度となく逆境を乗り切ってきたのだが、今回ばかりはついに進退極まった。豪放磊落でならした彼もさすがに青冷めた。仕方なく恥を忍んで親戚縁者を走り回り辛うじて倒産だけは免れ、ともかくも危機は脱した。その後徐々に仕事も入りだし、今では又昔通り溌刺として頑張っている。
 後になっての事だがその危機の真っ只中の時、彼は人の心の暖かさをしみじみと感じたと言っていた。社員たちは決して楽ではない家計にも拘らず給料の遅配をじっと辛抱し、その上却って自分を励ましてさえくれた。又奥さんは「あなた、明日からアパートへ移っても良いわよ。」と言ったという。「あの一言は堪えたよ!」女房がそこまで腹を括っていたことを初めて知って心にぐさりときたそうである。会社を興して既に二十年、その時やっと今迄見えなかった人の心が見えるようになったのである。彼は倒産の危機という 病を得ることによって初めて新たな価値を創造することが出来た訳である。

これを或る人が創造の病い“と言っている。先の和尚も一度は断崖絶壁に立って、そこから更に一歩を進め二つ目の山と向き合い、両眼をカッと見開いて乗り越えて欲しかった。容易なことではないが、そうすれば新たな人生の価値を創造することができ、二つ目の山を旨く築くことが出来たに違いない。彼の話は我々にそのことを教えている。
 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.