第二十回  剃  髪

 四九日は内外の掃除の日であり剃髪日でもある。早朝の堂内に閑静!″と大声がかかる寸前、後門の障子がはたきでばたばたと音をたてる。今日が四九日であることの報せである。皆一斉に起き上がると、何時もは布団棚に単布団も一緒に放り上げるのだが、その日は上げずにそのままにしておく。朝の勤行、坐禅、喚鐘など一連の行事の後、侍者さんがすぐに盥に湯を用意してくれる。当時は日本剃刀だったのでま ず合わせ砥(あわせど)で砥石の表面を平らにし丹念に磨くことから始める。私などはただでさえ不器用だったので、切れ味の良い剃刀を支度するところから難しかった。先輩の鮮やかな手付きを見よう見真似でやってみるのだが、なかなか思うようにはいかない。どだいこう言う刃物など今迄持ったことが無かったわけだから無理もない話である。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

しかしそんなことを言ってはいられない。待ったなしで隣単の者の頭を 剃髪しなければならないのだ。これには本当に困った。二人一組になりお互いが剃り合うので片方がもたもたすれば当然相手に迷惑がかかるわけで、必死だった。盥の湯で頭を濡らし何もつけずにそのまま剃るので一段と難しい。油断をすればすぐ頭を切ってしまい血がたらたらと流れる。そういう時は剃りおろした毛を傷口に乗せておくと血が止まるのだが、相手に、「いててててっ気をつけろ!」などと小言を言われ るはめになる。ましてそれが高単さんだったら身の縮む思いである。
 私が余程へたくそだったのであろう。隣の者はいつも余所でやってもらっていた。友達だった隆さんはそれを気の毒に思ったのか自分の頭を提供してくれ、これで稽古をしなさいと言ってくれた。しかしここでもざっくりと大きく切ってしまい、本当に申し訳なかった。「痛かったでしょう?」と言ったら「いいよ、たいしたことないから。」と言ってはくれたが血止めの毛の間からぽたぽたと血が流れ落ちるのを見た時 にはさすがに面目次第もなかった。こんな苦労の出発だったがやがて目をつぶっていても奇麗にしかも手早く出来るようになった。何事も修練である。現在ではこの日本剃刀を使うことさえなくなって、便利なT字型剃刀でやっているようだ。これなら切る心配もなく砥石で研ぐ必要もなく、効率的で良いかもしれないが、何だか淋しい気がする。これも時代の流れなのかもしれない。
 修行は一人一人が内面に向かって探求してゆくものだから、一緒に修行している仲間がいても本来孤独なものである。しかし四九日の剃髪にはお互いが直に向き合い、頭を剃り合ったり肩を揉み合うことで不思議な連帯感が湧いてくる。このように日常の一つ一つの小さな事柄全てが折り目正しく行われ、しかも無意識のうちに修行への励みと直結し、少しの無駄もないのである。

 
 
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