チベット旅行記(一)
 
 河口慧海という黄檗宗の禅僧が明治中頃、当時鎖国を敷いていたチベットへ命懸けで潜入した記録をチベット旅行記として残されているので、それをご紹介する。
 慧海師は慶応二年(一八六六年)、大阪堺の生まれ、黄檗宗の僧侶であり仏教学者であり又探検家である。それまで漢語に音訳(サンスクリットの音を漢字の音に置き換えた)されていた仏教経典に疑問を持ち、仏陀本来の教えの意味が分かるものを求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典の入手を決意し、日本人として初めて数々の苦難を乗り越えてチベット入国を果たした。この旅行記は単なる冒険談ではなく、禅僧としての高潔な人格と、魅力的な人柄が偲ばれる、まさに心の物語である。

 明治二十六年、チベット入りを発願するところから始まる。黄檗宗の一寺の住職として安楽にあった地位を捨て、死ぬか生きるかも分からない国へ行く。父母や同胞、朋友たちは死にに行くようなものだからよせと言う。しかしそれでは大切な原書によって仏法を研究できない。これらの情実に打ち勝つだけの決心をしなければ、到底出掛けることは出来ないと言う思いを新たにした。二十五歳で出家して、宗門の事務のため仏道に専修できなかった。これではせっかく出家した甲斐がない。
 明治三十年、三十二歳の時、まずインドに渡ろうと考えた。東京の友人に別れに行くと、何か餞別をしたいといろいろ尋(たず)ねがあった。大酒家には酒を飲まぬことを餞別にしてくれるよう、たばこのみには禁煙を餞別に、そういうことを餞別にしてくれた人が四十人ばかりあった。大阪に帰ってもそういう餞別を沢山もらった。中でも、長途の旅行中、私の命を救う原因になったかも知れぬと思われる餞別が二つあった。東京本所の高部十七と(とな)言う、アスファルトの発明者。この人は網打ちの名人で、彼が網を打った後には魚は一匹もいないと言うほどである。丁度出立の際、親しい信者なので尋ねていったところ、二,三歳の愛児がこの間死んで、妻は狂気の如く嘆き、自分もふさいでいる。そこで、もしあなたが愛児を縛りこれを殺して炙り煮て食う者があったら、あなたはどうするかと言うと、それは鬼です、人ではありませんと言う。それならば魚類とて命を惜しむの情は同じではないか。ただ娯楽のためにするは実に無慈悲であると、因果応報の理を説明し不殺生戒をもって我がチベット行きの餞別にせよと勧告した。そこで大きな火鉢の中にその網を入れて燃やし、「法界の衆生、他の生命を愛する菩提心を起こし、殺生的悪具をことごとく焼き尽くすにいたらんことを希(こひねが)う」と念じた。又大阪では安土の渡辺市兵衛という名高い鶏肉商(かしわや)。常に諫めていたのだが、チベットへ行く餞別に必ず廃業して他の商売をすると約束した。これらがヒマラヤ山中やチベット高原で,しばしば死ぬような困難を救ってくれた最大の原因になったのではあるまいか。この真実な餞別が私のためにどれだけ益をしたかわからぬ。貯金が一〇〇円、ほかに大阪や堺の諸氏が骨を折ってくれた餞別が五三〇円、そのうち一〇〇円を旅行準備に、五〇〇円余りを持っていよいよ日本を出発した。
 六月二六日、神戸の波止場から乗船した。シンガポールを経由してインドのカルカッタに着き、摩訶菩提会に数日逗留し、その後ダージリンのサラット師にチベット語をアルファベットから学んだ。一ケ月ほど勉強をしたころ、「あなたはチベットへ行くと言うが、それは止めた方が良い。鎖国が実に厳重で、今は嘗てのようなわけにはいかない」。としきりに止められた。しかし初志貫徹の心は少しも揺らぐことなく、更にチベットの俗語を学んだ。俗語を学ぶにはその国の人と同居するに限る。同居していれば知らず知らずのうちに覚える。俗語の良い教師は女子と子供である。毎日笑われながら一生懸命学んだので六,七ヶ月で一通りのことはまあチベット語で話せるようになった。明治三二年一月一日、例年のように祝聖(しゆくしん)の儀式をあげ天皇皇后両陛下および皇太子殿下の万歳を祝って読経した。いよいよ明年、チベットへ行くという決定をした。

 かくの如く、まだまだ物語は続くのだが、世俗の欲へ断固たる決別、餞別の話、身命を擲って修行しようという決定心等々、河口慧海師の心根がひしひしと伝わってくる。濁りない物を見つめる公明な態度、人間的共感の深さ、そのいずれもが人の心を打たずにはおかない。読み進ほど引き込まれ、禅僧にしてこれほどの旅行記は唯一無二と感じたのである。

 

 

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