チベット旅行記(二)
 
 明治三二年、いよいよチベットへ行くという決定をした。それにはどの道を取るかだが、ダージリンから西進してネパールに入れば美しい山水も見られ、仏跡にも参詣できる。しかしかねてからチベットへ行くためにチベット語を研究していることを皆知っているので、必ず跡を付けてきて私を殺すか、政府に密告して賞金を貰おうという者が出てくる。そのためどうしても別のルートを取らねばならない。語学を教えてくれたラマたちには,国に帰ると行ってダージリンを出発し、カルカッタからブッダガヤに行き夜、菩提樹下の金剛道場で坐禅をした。釈迦牟尼が成仏された木の下で坐禅できるのは実に幸福で、我を忘れて徹夜した。菩提樹に月が宿り、その影がおぼろに金剛坐の上に映って実に美しかった。

ブッダガヤから北に向かい汽車でネパールに着いた。そこでいくらかネパール語の勉強をした。チベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースに知遇を得る。凡そ一年間現地の学校に通いチベット語の習得をした。また下宿先の家族から俗語も学ぶ。その間チベットへ入国するためのルートを研究、その結果、ネパールルートが一番良いと分かった。また日本人と分かっては支障をきたす恐れがあるので、中国人として行動をした。明治三十二年、ネパールからチベットの間道へと試みたが、警備厳重のため断念して、一端ネパールに戻る。どこから入れば良いか新たな間道を目指して模索した。だんだん調べて行くと間道が沢山あることがわかった。遠回りをせずに行く間道は必ず一,二カ所関所を通らねばならぬ。巡礼者は物を納めて通して貰うらしいが、私はチベット乞食とちがい、押し問答しているうちに身元がばれてしまう危険がある。こうして詮索しているうちにとうとう好い道を発見することが出来た。このコースなら関所を経ずして旨く入れる。しかし行く路は大変困難で、強盗が沢山いる。つまり殺されに行くようなものだからおよしなさいと止められた。殺されても死んでしまえば、それで私の役目が済む。生まれた限りはいずれ死ぬ身、仏法の有り難いところに参詣するために殺されるというようなことは、実に目出度いことである。このように決心の程を話して、荷物持ちを世話して貰った。主従五人、白馬に乗って出発した。山中を北西に凡そ三四〇キロ、一〇日がかりでポカラに着いた。ネパール山中の美しい都会で、竹林に花の山、新緑が繁茂し、山から流れ来る水が遠く山間を通り、ネパール第一の街である。さて我々一行は寂しい山中を通っていった。長く伴うにつれ、二人の荷物運びの男たちは、実は恐ろしい人で、強盗や人殺しを何とも思わない札付きの者だと分かってきた。はて困ったことになった。何とか良い方法を見つけなければならない。ある夜、酒盛りの最中喧嘩を始めた。お互い罵りあい、挙げ句の果て自分の所へやって来て、相手が居るなら自分に暇をくれと言ってきた。これ幸いと相当な礼金をやり二人を解雇した。翌日川に沿って上り、北に進んで行くこと一六キロ、ツーラン村に着いた。そこに約一年滞在し、毎日朝夕三時間づつ博士の講義を聞いた。日曜日は全くの休みで、山の中へ散歩に出掛け、そこで山をどしどし登る稽古をした。これから雪山の道なきところを越えて行く下ごしらえである。脚も大いに強壮になり,体も強健になった。この辺りは雪が激しく降り出すと平原地も二尺三尺と積もり、暴風が恐ろしい勢いで雪を吹き散らし荒れ狂う。その凄まじい声は幾千の大獅子が奮迅して吠える声もかくあろうかと思われるばかりである。こんな山家に一年ばかり住んでいたのだが、毎日の学問はどれほど勉強しても体に堪えることもなく、清浄な空気で成分に富んだ麦焦がしを日に一度どっさり食べて、体は至極健全であった。陽暦八月頃は、ソバの花がきれいで、その頃は仏間に籠もって夕方までお経をよんで過ごした。どの方向に行けば人のいないところを通って行けるのか、いちいち書き取っておいて、その話を材料に尋ねると、そこにはこういう危ないところがあるとか、或いは注意しないと雪豹に食い殺されるとか、こういう具合に間道の研究をした。

 明治三三年三月一〇日、いよいよチベットを目指し出立した。村人に気づかれぬよう、ひとまず後戻りをして、ドーラギリ雪峰の山北を横切り、トルポへ出てから道なき山中を三日ばかり行くと、遊牧民のいる西北原に出られる道筋を辿ることにした。三十四年ついにチベットのラサに到着することが出来た。その間生死の境を幾多もくぐり抜けた。ラサではたまたま脱臼した人を治したのが切っ掛けとなり、民衆から大変な人気を博した。そしてついには法王ダライ・ラマ十三世に召喚され、侍従医に推薦されたが、仏教修行が自分の本分であると断る。また前大蔵大臣の妻の脱臼を治療した縁で、大臣邸に住み込むことになる。大臣の厚意によりチー・リンポ・チェという高僧を師として、チベット仏教を学ぶことが出来た。三十五年、日本人だという素性が判明する恐れが強くなったため、ラサを脱出、英領インドに向い、無事ダージリンに辿り着く。明治三十七年、「西藏旅行記」を刊行、それが新聞に取り上げられ,一大センセーショナルを巻き起こした。これが河口慧海師の略歴である。


 

 

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