一に掃除二に掃除
 
禅の修行というと直ぐに坐禅をイメージし、殆どの人が「足が痛いでしょう。」と言う。確かに坐禅は参禅とともに修行の眼目で、これなくして禅の修行は成り立たない。しかしこれらと同様に禅では掃除を最もやかましく言う。禅寺を訪ねて庭に箒目が立っていないようなら、そこの和尚が幾ら有り難い説法をしても、殆ど価値はない。何故ならそんな和尚の話は大抵あっちこっちに書いてあったものを、糊とハサミで繋ぎ合わせたような借り物で、口先だけで喋っているだけだからである。一に掃除二に掃除、三・四が無くて五に掃除、これが禅だ。さて、うちの僧堂は、元来五月一日から入制大接心だったのだが、いろいろな都合で近年は十五日からになった。そうなると俄然忙しい。二十八日・二十九日は恒例の僧堂創建円照禅師の毎歳忌の諸準備が、二十三日からしか出来なくなってしまったからだ。

そのため生け垣の剪定や草引きなどは、大接心が始まる十五日以前に済ませ、間に大接心をやって、終わったら直ぐに境内掃除に掛かることにした。二十三日は檀家衆、二十数人ほどが全山清掃に来てくれ、隅から隅まで掃き清められたのだが、これで掃除は終わりなのではない。この日が始まりなのである。周囲を山に囲まれびっしりと植え込みがある庭では、一度綺麗に掃いたと言っても精々二日も持てばいい方で、たちまち元の木阿弥となる。それなら最初から逆算して二日前に全山清掃すれば、一回で済むのではないかと思われるか知れないが、これは掃除と言うことを知らない者の言うことである。
我々も法要でよその寺に行くことがあるが、行事の主催者側は大変で、本堂内の荘厳は言うに及ばず、台所から境内の草引きや清掃に到るまで猫の手も借りたいほどだ。然も境内掃除の日に雨でも降られようものなら大番狂わせで、当日間際まで諸準備が錯綜し、息つく暇もない有様となる。さて当日お寺にお邪魔し、法要が始まる前にトイレを借りる。その時必ず窓を開け裏庭を見る。すると大抵は前日大慌てでひと掃きしたようなところが多い。落ち葉はないが、どことなくぶっつけ仕事の感は否めず、普段はうっちゃらかしで、草茫々、行事に合わせて一回掃いただけなのがまる見えだ。こういう庭は見ても美しさは感じられない。
うちの寺では二日後に雲水だけでもう一度境内を掃き清める。するとまた二日後には落ち葉で元の木阿弥となる。そこで更に行事の二日前に隅から隅まで掃く。これで計三度の掃除を繰り返したことになる。これを馬鹿げたことだと思う人には庭の美しさは分からぬ。当日幾つかの落ち葉が庭に散って、それがかえって美しさを醸し出すのだ。丹念に繰り返し掃いた庭の落ち葉は風情となる。つまり同じ事を繰り返し行うところから生まれる深みなのである。当日だけ庭を見た人はこれが三度繰り返されたものだと気が付かないかもしれないが、そこはかとなく漂う美しさは伝わるに違いない。
話は変わるが、ある女医さんが結婚して子供を産み、仕事を一時止めて子育てに専念した。ところが二人目の子供の時には、家政婦さんを雇い全て任せることにした。結局生まれたばかりの赤ん坊の世話は、お乳を飲ませおしめを替える機械的作業の繰り返しだからと考えたからである。ところが何年か経って二人の子供の成長を眺めると、明らかに違いがあることに気付いた。赤ん坊はただ泣いて、お乳を飲み、おしめを替えて貰っているだけだと思っていたら、実は無意識のうちにすべて自覚していたというのである。この話を聞いた時成る程と思った。これはその後の子育てにも言えることで、小学生低学年くらいまでは、母親が側に居てやることが、子供の人格形成上大いに影響すると考えられる。現代は男女雇用機会均等法で、女性の社会進出が当然になり、ゼロ歳児からでも人に預けて働きに出る女性が増えた。国全体の労働力という観点からすれば有能な女性が溌剌と働くことは大変良いことだが、一方では、女性ならではの子育てが疎かになると言う点は見逃せない。子育ても男女平等と言う考え方もあるから、一概に云々出来ないが、母親でなければ出来ない生育期の子育ては、重要問題だと思う。話しがやや横道にそれてしまったが、此処で申し上げたいのは、物事には、一見目には見えなくても、多大な影響を与えているのだということである。

 庭掃除と子育てと、どこが一緒なのだと言われそうだ。しかし同じ事の繰り返しは、一回一回が消えて無くなるわけではなく、どこかに片鱗が残っているのである。この一見無駄のように見える繰り返しだが、実のところそのものの持つ深い意味は計り知れない。何事も合理的一辺倒、無駄は省いて効率よくやろうという現代の考え方には、落とし穴が潜んでいるように思えるのだが、如何なものであろうか。

 

 

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