近所迷惑
 
 人間何と言っても、好きなことをするのが一番良い。知人で鮎釣りが大好きで、解禁になると居ても立っても居られないという人が居る。一緒に渓流のスケッチに出掛けても、何処を描くか思案するより前に、まずは川を眺めて鮎が釣れるかどうかを見る。常に鮎釣りの方へ意識が向かうわけで、端から見ていても、釣りが好きだという気持ちが伝わってくる。この人ある時、良い釣り場を探す為、対岸まで歩いて渡ろうとした途端、流れに足を取られ一気に押し流された。あわや溺死、もう駄目だと思った瞬間、目の前に大きな岩が現れ必死にしがみつき、一命を取り留めたという。これでもうこりごり、足を洗うかと思うとさにあらず、全身打撲に擦り傷、さらに高価な釣り竿を流され大損害を蒙ったにも拘わらず、前にも増して鮎釣り三昧の日々である。この様に好きな事というのは、多少困難にぶち当たってもやめない。すると新しい世界が広がって来るという事があるようだ。

 ところで好きなことも一方では近所迷惑になることも多い。しかしだからといって近所迷惑を恐れる余り、何も出来なくなったのでは、人生つまらぬ。そこで近所迷惑を知りつつ、それでも尚好きなことをやって行くところに、人生の面白みが出てくるのではなかろうか。知人の鮎釣りは別段近所迷惑と言うことはなく、むしろ釣った鮎を知人に差し上げ大いに喜ばれるから、これなどは近所歓迎の趣味と言える。しかしもう一方で、好きなことの一つに、「善行」をしたいという人がある。これで一番困るのは良いことをしていると思っている為に、近所迷惑の自覚が全くないところである。  例えば、老人ホームへボランティアへ行く。行けばやたら親切に振る舞う。老人の方も誰かに甘えたいものだから何やかや要求する。それに応じていると、老人も嬉しくなって、平素は出来ないことまでするようになる。これは確かに素晴らしいことで、しかも無償でやっているのだから、間違いなく「善行」と言えよう。しかし施設ではこういう人が時たま来てくれると、後で苦労する。甘える味を覚えた老人は、今まで自分で出来ていたことまでしなくなって、他人に頼るようになってしまう。施設側の人達はいちいち応じる訳には行かない。老人と言えども出来る限り自立的に生きて欲しいのである。時に、この老人がボランティアの誰それさんは優しいが、ここの人は冷たいなどと言い出すと施設の人は面白くない。そうなってくると次ぎにボランティアの人が来たとき余り歓迎しなくなる。そこで、あれっ、と気づき、施設の人と話し合うような人であれば本当に素晴らしいが、多くは他人の気持ちを一向察せず、そのまま平気でまたやって来る。物事には限度があるから、遂に施設側から来所を拒否されたり、板挟みになった老人からも無愛想にされたりで、破局を迎えることがある。さらに手を付けられないのは、こうなった時に、折角善行でやっているのにあの施設は何だ!と、他の施設に移り、渡り鳥的善行を繰り返す人まであるらしい。
 ここで思うのは、本当に善行をしたいと望むなら、微に入り細にわたって行わねばならぬということである。施設の人の不機嫌を感じ取ったら、何故なのだろうと考え、また老人があれやこれやと欲することに応じることが果たして本当に意味のあることなのか、考え直してみる必要がある。そうしないと、善が善にならないどころか、有害なことにさえなってくるのだ。

 先進国の対外援助の実態などを見ていても、同様なことが言えるのではないだろうか。莫大な金額を使い、いろいろな物資を送り込む。それでその国は果たして豊かになったのだろうか。本来その国に無かったような物を急激にしかも大量に送り込むことはそれまで培ってきた、その国の文化や生活習慣など基本的な事柄を壊す例がよくあるのだ。しかし支援する側は、自国の価値観を強引に押しつけ、それでこの国は幸せになると勝手に決め込むのである。これなども近所迷惑の典型で、大いに考えさせられるところである。微に入り細に渡るような面倒なことはしたくない。とにかく善意でやっているのだから、良いじゃないかと言う人は、自分勝手で、称賛に値し無いどころか、極めて近所迷惑である。ボランティア活動もきちんとした自覚を持ってやって貰わないと逆効果である。改めてそう思い始めると、「善を行う」ことがどれ程難しいかが分かってくる。自分では善だと思っていることが、本当はどうなのか分からなくなる。この様に考えてゆけば、善人に共通する不愉快な傲慢さも少しずつ消えてゆくのではないかと思う。禅語に「自屎臭きを覚えず」というのがある。ならば、真実の姿を映し出す鏡を保つことである。

 

 

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