2005年12月 いじめ
 
 学校でのいじめの問題は相当以前から議論されている。私は子供を持っていないから、日常的にこの間題と向き合った経験はないが、子育て中の親にとってこれは大変厄介で難しい問題のようである。学校の教師だけでは到底解決できない深刻な状況で、関係者は頭を悩ませていると聞く。私はそれを新聞や雑誌などを通して知り、困ったことだな!と思っているだけだが、当事者になればそんな悠長なことでは済まされない。
  ところが近年禅の専門道場でもこのようないじめが問題になってきた。修行の道場でもそうなんですか、と言われそうだが、入門してくる若者達は皆現代社会の様々な問題を抱えて入ってくる。したがって道場と雖も逃れることは出来ないのである。いじめが嵩じてついには自殺者が現れるに及んで、真剣に取り組まなれればならない問題と思うようになった。本来、禅の指導をする師家はそんな俗世のことには一切関わらず、本参の話頭に向かってただひたすら行業綿密にやっていれば良いわけだが、そうとばかりは言えない状況になってきたのである。雲水も親にとっては大切な息子であり寺の跡取りでもある。特に近年の少子化は寺も同様で、一人一人が貴重な存在なのである。こうゆうことをふまえて道場の指導をしてゆくことが求められている。

 しかし各道場は師家の采配のもとに全て一任され、部外者がとやかく言う余地はないのが現実である。一応、僧堂補佐員が二名居て、師家を補佐するという建前にはなっているが、その補佐員も嘗ては師家の下でボコボコにやられているから、同等にものが言える立場にはない。結局解っていても黙ることになる。では師家の方はどうかと言えば、生活エリアは雲水達とはずっと離れた寺の一番奥まった所に居り、例え殴り合いの喧嘩が始まったとしてもその気配や物音さえ解らない。もし何となく変な雰囲気を感じて師家の方から雲水に尋ねたとしても、殆どの場合は何事もなかったように装うのが現実である。ちょっとぶん殴られたからと言って、わんわん泣きながら師家に訴えてくることなどない。皆修行だと思ってどんな理不尽なことがあってもじっと我慢するからである。それでこそ修行なのであり、痛いの痺いのといちいち泣き言を聞かされたのではこちらも堪ったものではない。元来道場とはいじめる所で、和気藹々皆が仲良くやっているのではお話にならない。ただ問題は、いじめが修行というレールの上に乗っているか、それとも全くの私恨からでたものであるかである。しかしこれも修行に親切と言われればなかなか判別は難しい。
  私はその解決策の一つとしてこんなことを考えた。まず問題なのは全てを師家一人に任せていることである。師家はずっと僧堂ばかりに居るから殆ど世間知らずである。だから現代の若者気質とか、学生生活の過ごし方など知る由もない。勿論そんなことは知らなくても良いわけで、下手に知って世間に迎合するようになったら師家の価値はないと言える。しかし一方ではこんなことで現代っ子の若者に対処できるわけがない。そこで第三者機関を設け僧堂内のことは全てオープンにする。所謂情報を公開して公平な判断を仰ぐのだ。ここではむしろ子育てで様々な苦労を重ねた者こそ適任で、更にその中には現役の幹部雲水も入り、いろいろな意見を交換するのである。そういう遣り取りの中から雲水自身が世間を学んでゆくのである。こういう教育は師家の役割というよりむしろ世間に出て壇信徒と遣り取りしている一般の和尚の方が良い。

 毎年二月の制間に師家が一堂に会し、ざっくばらんな話し合いの会を設けている。今年はこの件について私から提案させて貰い、先輩諸師から良い意見を頂くことが出来た。ある僧堂では毎月一回総合学習という時間を設けている。例えば信者先へ誦経に行った時、こういう質問を受けたがどう答えるのが良いのか、また禅堂内での直日の心構えはどう在らねばならないかとか、その折々の問題を提起し皆で話し合うというのである。いかにも近代的で、ちょっと僧堂では如何なものかという疑問も沸くが、何もせずに手をこまねいているより先ずは実行である。こういう話し合いの中に経験豊かで信頼の置ける和尚が一枚加われば更に良いであろう。いずれにしても大切な弟子を預かるわけだから、期間にかかわらず道場で修行した甲斐があったということにならなければ意味がない。これからも様々試行錯誤しながらやって行くつもりだが、此処へ来て修行したことが本当に良かったと雲水が心から思えるような、そんな道場にしてゆきたいと念じている。
私も師家になって早や二十七年が過ぎた。人を育てることが如何に難しいことか、身に染みて感ぜられる。私自身も修行の日々なのである。

 

 

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