2002年10月 鎌大師
 
 数年前から五日間づつ分割方式で四国遍路を歩き始め、今回でようやく五十九番まで来た。そもそも発願したのは私が二十五才の頃だったから、実現するまでに三十数年を費やしたことになる。念ずれば花開く、というが何と長い年月を要したことか。物事が実現するにはそれなりの切っ掛けがあるものだが、私の場合もそうせざるを得ないような偶然なことが次々に起こった。その一つに、ある時テレビを見ていたら、五十三番札所円明寺から歩いて十三キロほどのところにある番外寺の鎌大師と言われる堂守さんのことが放映された。この堂守の婦人に何とも言えぬ穏やかな雰囲気と捨て切った清々しさを感じ、一度是非お目にかかってみたいものだと思った。そこで忘れないようにしっかりと場所をメモしておき、今回ようやく実現したのである。

 ところは愛媛県の北部、北条市の国道一九六号線から南に迂回する今治街道添いの山ぎわにある。十数年前テレビに登場したときには大きな松の木の傍らに三間四方位の小さなお堂がぽつんと建っていただけだったが、今回行ってみるとお堂は立派に新築され、左側に小さいながら新しい庫裏も建てられていた。だから些かイメージとは違ったわけだが確かにそこは鎌大師である。早速庵主さんにお目にかかりたいと、玄関のベルを押した。 し〜んと静まり返っていたので、あるいは留守なのかも知れぬと案じたが、中から声がして少し前かがみの老庵主が出てきた。お年を伺ったら九十二才という。端正な顔立ちは以前そのままであった。そこでお尋ねすることになった経緯を簡単にお話し、近頃の暮らし向きなどを尋ねた。話の様子では度々テレビに出演されたり、各地へ講演に出掛けたりと、この地方ではなかなかの有名人らしい。我々のよく知る著名な作家や高僧がたとの交 流が次々とぽんぽん口をついて出た。ふと見ると玄関の傍らには著作が並べてあったので三冊ほど買い求めた。
 それからお堂の前で心経を誦し回向(えこう)した。お経を詠んでいる間も庵主さんは曲がった体を杖で支えながら後のベンチに腰掛けて一緒にお参りされた。六月の強い日差しが容赦なく照りつけ汗を流しながらのお参りであった。「どうぞいつまでもお元気で!」お別れの挨拶をすると私たちは次の五十四番札所をめざして山道へ歩を進めた。
 この老庵主さんは曾て四国八十八番札所を十五回も歩かれ度々この鎌大師にお参りされたという。その後先代の老僧が亡くなられたのを機に村人からも勧められこの庵の堂守になられた。その時の条件は全てを捨てて来るようにというもので、これには相当な決断が要った。「はい、参ります。」と言い切った瞬間に心も決まり、身辺整理に三ケ月ほどかかったが、所持金はさっぱりと処分して、たった一人やってきたのである。それから既に二十数年の歳月が流れ、十数年前には村出身の高名な弁護士が寄進を申し出られ、現在のような立派なお堂と庫裏が完成したという。全てを捨て切って初めて得られるものがあったのである。
 ところで私はこの老庵主と会って、思うことがあった。それは矢張り修行は独学では駄目だということである。この方は後年、曹洞宗のどなたかに就かれて出家得度されたようだが、多分それは殆ど書類上のことで、僧としての修行はされていないようだ。したがって僧ではないわけだから仕方がないと言えばそれまでのことなのだが、捨て切ったはずが新たな垢が付いてしまっているように思えた。

十五回も遍路の旅をされたのだし、全て を捨ててこの地にやって来て堂守となられたわけだから、曾てはそういう心境であったに違いない。しかし寝溜め食い溜めが出来ないように修行溜めも出来ないのである。捨て切った次の瞬間からもう拾い集めているのだ。其処をずばり指摘し、尚修行の到らなさを厳しく問い正してくれるのは常に厳師である。自分の顔は永久に自分では見ることが出来ないように、自分の心も見えないのだ。確かに組織の中に身を置くことはそれなりに煩わしく、出家であるべき僧が俗世と変わらぬ側面を見ることは耐えられぬと思うこともある。がしかしそういうことも含めて自分を磨いてゆく糧としなければ正しい道を歩んでゆくことは出来ないのである。一度風呂に入って奇麗さっぱりと体の垢を洗い流しても、そこから一ケ月も二ケ月も風呂に入らなかったらどうであろう。そんな人の側には臭くて寄り付けたものではない。これと同様に一度捨て切ってもさらに毎日捨ててゆかなければならない。これを正念相続といい、相続はまた大難である。だからこそ心の世界は限りなく深くしかも広く、限りなく魅力的なのである。

 

 

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