2002年8月 ブラジルの旅(その一)
 
 三月初旬、初めてのブラジル旅行に出立した。知人のE氏が是非おいで下さいと言ってくれたのを良いことに、遠慮などというのは全く別の世界の話のような調子で出掛けた。飛行機だけでも二十四時間もかかる長旅の上、行く先は滅法物騒な地域と聞いていたので、一体どうなることかと大いに心配しながら、また一方ではそういう旅こそエキサイティングだと興味津々で出発した。E氏とは別の知人を介して私が以前出版した本を差し上げたのがご縁の始まりで、それから折りにふれて手紙や偶にブラジルから帰られると電話で話したりという関係であった。だから通常ではとても何日間もお邪魔をし、各地をご案内頂くなどという厚かましいお願いは、出来る相談ではないのだが、今回は不思議にも何となくそういう事になってしまった。

 経緯はともかく私は期待に胸膨らませて出立した。ブラジルは何でも日本と反対の国である。日本での三月春先はあちらでは夏が過ぎて秋にさしかかるという頃、日中はゆうに三十度を越え日差しは強いものの朝晩は涼しく誠に快適な季節であった。サンパウロは標高八十数メートルの所にあるため高原の爽やかさである。空港には朝六時半に着いた。真っ黒に日焼けしたE氏が満面に笑みを浮かべて迎えてくれた。車で約一時間市内の高台にある二十三階建てのマンションの二Fフロアー全部が彼の家で、広々とした応接間に通されると、窮屈だった機内からやっと開放され、ほっと一息つくことができた。
 先程何でも反対と言ったが、例えば時差が十二時間で日本のお昼はここでは真夜中の十二時となる。単一民族と多民族、先進工業国と農業国、資源の殆ど無い日本とああらゆる資源があるブラジル、面白いのは日本では河川は大抵内陸から海に向かって流れるが、ブラジルでは海岸線から内陸に向かって流れるということ。つまり国土の中央が窪んでいるということなのだろうか。風呂は夕方ではなく朝入る。尤も家庭でもホテルでも浴槽は無く全てシャワーであるが。これも年間を通じて温暖であるということからくる習慣なのだろう。またこれは朝食の時だけだがまずは豊富な果物が食べ始める。国土は日本の二十三倍、サンパウロ州だけで丁度日本と同じ広さだというから驚く。ブラジルの知識といえばサッカーの強い国、曾て日本から多くの人が移民した国、またコーヒーの国という程度だった。そう言っては何だが、普段はあまり日本ではニュースに登場しない国でもある。 言葉は曾てポルトガルの植民地だったことからポルトガル語、唯一覚えたのがオブリガード、これは有難うの語源。昔風な言い方なら、かたじけないとかあいすまんというところであろう。
 サンパウロ市内に入ってまず驚いたのは家という家の入り口は二メートル以上の、見上げるばかりの鉄柵で全面覆われていることである。まるで動物園の檻の前を歩いているようだ。E氏のマンションもまず車から信号を出すと一つめの鉄柵が自動で開く。入ったのを確認するとすぐ鉄柵が閉まり、今後は次のシャターが開いてようやく中に入ることが出来るのである。よくライオンの檻などで餌を与えるために係の人が中へ入るのと同じである。こうしないと一つめの柵が開いているうちに隙を突いて中に潜り込む者が居るのだそうだ。油断も隙もあったものではない。治安の悪さはそれなりに承知はして行ったのだが、これには驚ろかされた。尤もこんな物騒に成ったのはここ十年のことでそれ以前はずっと治安も良く、夜なども結構自由に歩けたというのだ。では何故かくも悪くなってしまったかといえば、それは麻薬だという。これは大変深刻な問題で、特に若者が麻薬に冒され、そのために犯罪が急激に増加したというのである。日本でも近年同様の問題が言われてきているがこういう状況を見るにつけても余所ごとではない。

 隠侍は今回E氏のマンションから歩いて五、六分という近くの長期滞在型ホテルに泊まった。日中近所の銀行へ出掛け換金をし終えて帰ろうとしたら、近くにいた人が親切にも、「この辺は危ないから私が一緒にホテルまで行って上げます。」と声を掛けられたという。「結構、この辺の人は親切ですね〜。」 と言ったら、E氏に「それが一番危ないんですよ。」と言われてしまった。その時はたまたま本当に親切な人だったわけだが、そう言って付いて来て襲うという例がいくらで もあるのだそうだ。日本の治安の良さに慣れ切ってしまっている我々にはいくら気を付けなければと言われてもそう俄には対応できないのである。万事がこんな調子だったから、気づかぬ処でE氏にはさぞご苦労をお掛けしたのではないかと思ったが、普段の生活とは劇的に違う充実した楽しい十日間であった。                (つづく)

 

 

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