1999年2月 遍路(へんろ)
 
 そもそも最初に四国遍路を思い立ったのは今から二十数年も前のことになる。老師の先輩の雲水で非常に期待された人がいて、本人も少なからず自信を持っていた。しかしどう言うわけか一向に参禅は進まない。そこでその窮地を打開するために休暇中、四国八十八ヶ所の巡礼を思い立ったそうである。宿は夫々のお寺の本堂で御籠りをさせてもらい、写経をしては奉納した。やがて制間も終わり再 び修行の期間に入るとそれまでの心の迷いがふっきれたのか、見事一つの大きな壁を乗り越えられたという。
 たびたびこの話をきかされていた私は自分もこの先輩に倣って是非巡りたいものだと思った。しかしいざ八十八ヶ所を巡るとなると慎重派の私は遂に踏み切れずにそのまま沙汰止みとなってしまった。ところがそんな或る時、信者さんで突然ご主人をなくされ悲嘆に暮れていた老婦人がやって来た。まるで魂の抜けた脱け殻のようになっていた。その様子を見るに見兼ね、私は自分から 「四国八十八ヶ所巡りでもしようか!」と提案した。
 十年以上も心に掛けながら実現できずじまいだった四国巡礼がこんなことをきっかけに図らずも叶うことになったのである。それから八十八ヶ所を少しずつ分けながら車でお参りをし、無事巡り終えたら約四年程かかってしまった。
 ところで私は毎年一回健康のために九州へ断食に出掛けている。その時たまたま同室になった人から、この断食の後すぐ四国巡礼をするという話を聞かされた。
 今年定年を迎えるその人は人生の一区切 りを四国巡礼で、又新たな出発にしたいというのだ。「実は私もずっと長い間歩いて四国巡礼をしたいと思い乍ら、今日まで実行できずに来てしまいました。無事やり遂げたら是非様子を聞かせてください。」と言って別れた。
 しばらくして彼から、無事巡り終えましたという嬉しそうな電話を頂いた。巡礼は想像以上に素晴らしく、是非和尚さんも出掛けてくださいと励まされてしまった。その上親切にも歩いて巡る人のために書かれたガイドブックまで贈ってくれたのである。こうなってはもはやこの上尻込みは出来ぬ。彼に背中を押されるように決行することになった。
 出立は昨年三月だった。行き帰りの足は隠侍の運転で車に乗せてもらい、着替えやその他の荷物も車で移動し、私は必要最小限の荷物で歩くことにした。行程やその他準備は全て整ったのだが、ここで車の座席が二つあいていることに気が付いた。その時私の頭に或る老婦人の顔が浮かんだ。彼女は数年前にたった一人の大切なご子息を突然死で亡くされ、大変なショックを受け悲嘆のどん底にあっ た。今では何とか立直り、生来の明るさを取り戻されてはおられたが、しかし心に刺さった棘はなかなか抜けるものではないと私は感じていた。そこでこの老婦人をお誘いしたらどうかと考えたのである。早速計画をお話すると二つ返事で同行を願われたので、それならば貴方の親しい友人を一人誘ってみてくださいと申し上げた。こうして四人の巡礼が始まったのである。
 三月上旬、出発の日は快晴であった。まだ少し寒かったが午後十二時ごろには第一番札所霊山寺に到着した。すぐ笈摺、菅笠、錫杖、ロウソク、線香、朱印帳などお参りに必要な全てのものを取り揃えた。四人で声を合わせ旅の無事を願いながら心を込めて般若心経を唱えた。私の頭には実現までの長い道程が思い出され、格別の感慨が去来していた。
 三日目は今回の日程中最大の難所である、十六キロの山越えである。午前六時半に出立すると、いきなり急な上り坂になった。息は弾み、額から汗が吹き出て来た。途中、喉の渇きを癒すために持参したポットの湯でコーヒーを作り飲んだ。静かな山間に心地よい風が頬を撫ぜ、しばし疲れを休めるひとときが何より幸せに思われた。その時ごく自然に同行の老婦人が亡くなったご子息の想い出話を始めた。それはめそめそした追憶ではなく、 心の奥底の静かで平らな境地から語られ、 優しく包み込むようだった。

 遠く近く聞こえる鶯のさえずりが一層我々の心を和ませた。巡礼とは何と素晴らしいものか。この老婦人の心をこんなにまで優しくしてゆくのだ。彼女はこれまでに、どれ程多くの人達の慰めを受けたか知れない。しかしそれは却って彼女を一層苦しめることになったに違いないのだ。四国遍路をしながら婦人は自分自身でその荒れ狂う心を静める力を得たのである。禅では常に自力という。これは誰かが既に加工 した二次的な言葉や考えではなく、自分の心にダイレクトに響くものを、前向きに生きながら得てゆくことに外ならない。私はこの老婦人が巡礼を通して深い悲しみを克服してゆく姿を目のあたりにして、人間の強さと弱さが織り成す綾の如き心の風景を見る思いであった。

 

 

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