1999年1月 還俗(げんぞく)
 
 プノンペンの渋井師が久しぶりに私の寺を訪ねて来た。彼とは昨年の三月にアンコールワットを見学した旅の途中、ワットウナロームで会って以来一年振りの再会であった。相変わらずの質素な作務着姿で、今年五十才というものの血色もよく元気そうであった。
 実は一月頃、私は彼から一通のレポートを受け取っていた。現下のカンポジヤの社会情勢から始まり、ウナロームで預かっている子供達のこと、日本語学校のこと、又彼自身の最近の心境の変化に至るまで、カラー写真入りで約三十頁にも及ぶものであった。特に驚かされたのは日頃の生活ぶりから自分の内面についてまで包み隠さず真情を吐露していることだった。その報告書には二つの重要な事 柄が書かれていた。一つは新たな活動として″緑の基金″を起し植林活動を始めたいと言うこと、もう一つは還俗するということであった。
 報告によればこうである。子供を預かり学校へやり、日常生活の面倒をみる。或は日本語学校を開いて地域の人たちに教え、彼らが将来自立してゆくうえで少しでも役に立つようにする。これらの活動を支えてゆく資金はというと、その大半を日本で彼を支援する人達に仰いでいた。そこで何とか現地で自活出来るようにと、ワットウナローム内に売店を開設し、お土産品を販売し始めたところ、こ れが結構な繁盛振りをみせ、運営費はこの売店からの収益で賄えるめどが立ったということである。一方仏教学院も机や書棚などの整備、更に授業に必要な教科書も印刷出来るようになり、何とか起動に乗ってきた。このようにして彼は数年来これらの目標に向かっていくつもの困難な壁を乗り越え、今ようやくそれが達成されたわけである。しかしいざ全てが実現してしまうと心に穴が開き、何とも 言えぬ虚しさに襲われた。安住の場にぬくぬくと腰を据え、落ち着いてしまうことは彼の性格上出来ないのかもしれない。そんな中から次に考え始めたのが植林事業だったのである。森林の乱伐による国土の荒廃とそれが原因となって起こる洪水を何とか防がなければならない。それには″緑の基金″を創設し学校や地域の協力を得て、これから大々的に植林活動をしてゆこうと考えたのである。
 ところが実際に植林を始めてみると新しい問題が生じてきた。カンポジヤ僧として多くの厳しい戒律に縛られていることが何とも不自由になってきたのだ。例えば苗木を運搬するためにトラックで出掛けようとしても、僧侶は車の運転をしてはならないという戒律があるため、わざわざ人を雇うことになる。また午後三時までには必ず寺に戻らなければならないというのも作業の大きな障害になる。 その外幾つもの戒律に縛られていて、植林業を本格的にやろうと思えば思うほど両立は困難になってきたのである。そこで今回還俗することにしたというのだ。勿論この場合の還俗とは真言宗醍醐派の僧に戻るということで、所謂在家になってしまうというわけではない。これからは日本の一僧侶としてボランティア活動をしてゆこうと決めたのである。
 そこで私は彼に次のように進言した。まず植林についてだが、その主旨は誠に結構で、確かに重要なことではあるが、さてその資金調達を従来支援をお願いしてきた人達にそのまま又お願いするというのは如何なものだろうか。私も含め、たとえ僅かでも貧者の一燈を捧げてきたのは渋井師がカンポジヤ僧となって、貧しい子僕たちを育て、将来を担う次世代の若者を教育し、又壊滅的状態のカンポ ジヤ仏教興隆に寄与するという活動に感銘したからである。つまりその黄色い法衣に象徴される宗教家としての尊い志に捧げたのであって、もし植林事業で援助を求めるのなら、カンポジヤから木材を輸入している関連の業界に働き掛け協力を仰ぐべきで、その方が効果が上がるのではないだろうかと進言した。

 次に彼の還俗についてであるが、私はこう考えている。宗教者の本来あるべき姿とは自分が仏法に生きることに他ならない。どこまでも依って立っているところは″法″であり、もしそれを捨てて、こっちの方が効率的だから良いとか、ましてや法衣は作業に邪魔だというような考えであっさりと脱ぎ捨ててしまうのは本末転倒という外ない。慈悲とは深い仏教精神から醸しだされる止むに止まれぬ 僧としての行(ぎょう)だ。彼にはもう一度何故自分は出家したのか、何の為に生きるのか原点に戻って問い直してもらいたい。折角尊い仏縁に恵まれながらそれを充分生かしきれず、上座部仏教僧としての法衣をあっさり脱ぎ去ってしまうのは何とも残念なことである。いや彼ばかりではない。我々もしっかりとした法を拠り処に、真の宗教者として生きているか否かを常に厳しく問い直されている ことを肝に命ずべきなのである。

 

 

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