1998年8月 大死一番
 
 禅の修行は一口に二十年といわれている。このような長い年月を一人の師匠に付いてひたすら修行を積み重ねていく。その中身とはいったいどのようなものなのだろう。坐禅、托鉢、作務、講座、参禅、その他日常のあらゆることが全て修行であり、これらを通して師匠の腹の中にぴたっと入ってゆくのである。
 人はおぎゃーと生まれた時から、親や兄弟など周囲の多くの人達から様々なことを学ぶ。だから修行する年齢に達する頃には既にコチコチに固定観念が出来上がってしまっており、そのままの状態で幾ら修行しようとしても不可能だ。それは物が一杯に詰まった舛に無理矢理後から新しい物を詰め込もうとするのと同じで、ポロポロこぼれるだけで何一つ新しいものは入らない。そこでどうしても一 遍はこの舛をひっくり返し、綺麗さっぱり掃除をしないといけない。これを禅では「大死一番」という。
 ところがこれは実際行なうとすると非常に難しいことである。我々は小さい時から新しい知識を身に付けるために必死だった。学べ学べで、より多くの知識を得る為に競い合ってきた。それが途端に今度は全部捨てなさいと言われてもそう簡単に意識を変えられはしない。ここに良い例話があるので紹介する。
 私が丁度二年程修行した頃、或る一人の中年の尼さんが入門してきた。入門といっても男ばかりの僧堂では、一緒にという訳にはいかない。そこで老師が門前の尼寺を紹介し、客分として厄介になりながら、修行を続けて行くことになった。朝は三時半には本堂にきて一緒に勤行をし、終われば一人本堂のぬれ縁に坐し、参禅が済むと又尼寺に引き上げて行く。日中は八十を既に越えた老尼の手伝いをしながら、夕方になると再び僧堂に上が ってきて坐禅を組み参禅をし、その後も深夜に至る迄坐禅を組み続ける。寒い冬の頃などは並大抵ではない。当時の我々の倍以上の年令であった彼女のその精神努力には目を見張るものがあった。しかしそれ程までの努力にもかかわらず参禅は一向に、はかばかしい成果も上がらず苦渋の日々が続いている様だった。
 一方その頃の老師は大変忙しい毎日を送っておられた。信者さん達も大変多く、相談ごとや色々なお世話など東奔西走である。だから老師の都合によってきちんと決まった時間に参禅を出すことが出来ないことがあった。そこで外出から帰られると時間にとらわれず直ぐ参禅になった。外での仕事でさぞお疲れだったろうと思うが、約一時間は雲水の相手をされた。これも容易なことではない。ある夜老師が外出から車で帰る途中、真っ暗闇 の田舎道でヘッドライトに照らされ、一人の尼僧の歩く後ろ姿が浮かび上がった。こんな夜中の寒空にいったい何事かと直ぐに車を止め、尋ねようと見ると件の尼僧であった。「おまえさん、いったいどうしたんだ。こんな夜中に…まあともかく車に乗りなさい。」と言い、車中事情を尋ねるとぽつりぽつりと話し始めた。「実は誠に恥ずかしいのですが、幾ら頑張って坐禅を組み修行してもどうしても新な心地が開けません。こんな状態を幾ら繰り返していても変わらないのなら、この辺 で徹底的に自分を鍛え直そうと思いまして、迫間のお不動さんに龍もり断食接心、眼が開けるまで退出せずと願心をたてました。今日はその帰り道です。」と言うことであった。
 最初に大死一番、捨て切ると言ったが尼僧さんはこれほどまでにしていてもなお死に切ることは出来ていなっかたのである。人間の心とは何と厄介で始末の悪いものだろう。しかしこの決死の覚悟と精進なくしてその醜さや困難さを知ることは出来ないのだ。捨てて捨てて捨て切って、本当の死をも覚悟した時、初めて新たな光明を見出すことが出来る。五十を過ぎても尚、このように志を深く持ち 純粋に道を追求する姿は当時の私にとって何よりの励みになった。
 ところで先程も書いた通り忙しい老師で、しかも老齢であったから時々参禅を出すのをさぼることが有った。そんな時は老師は必ず隠侍さんに、尼主さんが何時も坐禅を組むぬれ縁までこそっと覗きに行かせる。そして居ると「今日は出すぞ!」居ないと「今日は止めておこう!」 と言う。このことを知った我々は「それじゃー俺達の修行はどうでも好いてことか!」と散々文句を言ったものである。

その頃のことを今でも懐かしく思い出す。天下の大老師、なんの尼主一人ぐらいに 気兼ねの要るものか。それをいちいち覗かせにやってまでして、出すの出さんのと笑止千万である。しかし私はこれを法を知る者は懼る″ということだと感じた。つまり法の前にはなん人といえども一介の小僧なのである。修行の尊厳さを本当に知るものにして初めてこのように振る舞えるのだ。老師の持つ修行の世界を今垣間見る思いである。

 

 

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