1998年7月 君子は以て愚に安んず
 
 先住職の三井大心老師は私が修行した道場の大先輩であった。私が入門したときには既に瑞龍寺の老師として雲水の指導をしておられた。時折道場へ来られた時恐る恐るお茶を運んだことを今でも覚えている。その時はまさか老師の後を私が受け継ぐことになろうとは夢にも思っていなかった。老師のことについてはその頃の私は殆ど何も知らず、岐阜へ来て二人で朝の茶礼 (されい・お茶を飲みながら一日の打ち合せやお互いの意思の疎 通を図る。) の折りにぽつりぽつりと想い だすままに昔話をされたので、初めて色々なことを知ることになった。
 老師は長野県真田町の御出身で、小さい頃は比較的裕福な家庭で育たれたようだ。ところが父親が莫大な借金の肩代わりをする羽目になり忽ち没落、ついには家屋敷まで失ってしまったという。或る日学校から帰ってくると母親が 「お前の一番大切なものを一つだけ鞄にしまいなさい。」と言った。小さかったから何故突然こんなことを言うのか分からなかったが、取り敢えずでんでん太鼓をしまったそうである。晩年「あんなものが一番大 切だったんだからなー。」と微笑みながら 懐かしそうに言っておられた。その後の生活振りについては多くを語られなかったが、経済的精神的苦痛は計り知れないものがあったに違いない。
 十五歳の時、たまたま西田天香師の講演を聞く機会があり、その話にいたく感銘を受け、意を決して故郷を出奔、天香師の下で修行生活を始めた。それから暫くたったある時、天香師が一宮の妙興寺へ講演に出掛けられ、そのお供としてついて行った。その時に天香師は住職の喝山窟老師に、「この子は禅僧になったほうが良いと思うので老師の下で修行させてやって下さい。」という事になったらしい。そんな経過で禅寺での小僧修行が始まったわけである。大正十五年春、伊深の正 眼僧堂に入門、惟精老師、逸外老師に就いて修行すること三十余年、遂にその蘊奥を極め、昭和三十一年瑞龍僧堂の住職となり、爾来二十六年間雲水の指導のために精根を傾注された。昭和五十七年隠居され、約十年余悠々自適、余生を楽しんでおられたが、平成四年十二月二十六日静かに息をひきとられた。
 「百人一人(ひゃくにんびとり)」百人居ると九十九人は盲だが、必ず一人は目明きが居るものだ。だからどんな些細なことでも決して好い加減にしてはいけない。ちゃんと見ているものだ。
 「君子は以て愚に安んず」近頃は賢い者は幾らでも居るが、大馬鹿者はなかなか居ない。この大馬鹿者にならなければ駄目だ。
 これらは生前伺った話の一端である。亡くなってから老師の部屋を一人で片付けた。一つ一つ整理しながら、これは大心老師三十六年間の瑞龍寺における日々を辿って行くようなものだと感じた。生前老師は観音さんを描くのがとてもお得意で、その習作が何十枚も出てきた。それはどれも丹念に鉛筆でかたどり、その上から何遍も稽古してある。その覚束ない筆運びと膨大な反古紙を目のあたりに して思わず涙が出る程の懐かしさに駆られた。孜々兀々(ししごつごつ)と言うが、何と生臭面目に生きた人だったのであろうか。又大変な読書家でもあった。大切な箇所を大学 ノートにびっしりと写したものが何冊も出てきた。これだけの知識と深い思索がありながら、どうして何らかの形で表されなかったのだろうか。確かに老師は照れ屋で万事に消極的であったが、どうもそれだけではないように感じた。その時ふっと柴山全慶老師の次の詩が浮かんだ。
  花は黙って咲き
  黙って散ってゆく
  そして再び枝に帰らない
  けれどもその一時一処に
  この世の総てを託している
  一輪の花の声であり
  一枝の花の真(まこと)である
  永遠にほろびぬ生命の歓びが
  悔いなくそこに輝いている

 老師の全ての荷物を片付け終え、居室に一人たたずんで静かに辺りを見回すと、二羽の雉鳩が目に入った。生前老師は隠寮(老師の居室) の庭に住みついたその雉鳩夫婦を可愛がり、縁側から餌を投げ与えては啄ばむ姿を楽しそうに眺めておられた。今その主を失って静まり返った庭先に、今日もやって来ては餌を求め、ボボーボボーと鳴いている。その何とも哀しげな声が一層胸にしみて、鳴呼老師は死んでしまわれたんだなーとしみじみ と思われるのである。
 修行の世界で生きるということは誠に地味なもので、毎朝三時半に起きて勤行・坐禅、掃除等ただ黙々とやるのみである。道の片隅でひっそりと咲く野の花のようなものだ。「真実がどうして伝えられるものか!」という大心老師の声が何処からか聞こえてくるような気がした。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.