1995年8月 「諦観」(たいかん)
 

 もしあなたが一メートル幅の道路を真っすぐ踏み外さずに歩けますかと問い掛けられたら、何と答えるだろうか。大抵の人はそんなことは簡単、誰だって出来ると言うだろう。しかしその道が三十メートルの高さにあり、両側は千尋の谷と聞いたらどうだろうか。途端に、「そんな道はとても歩けない。危険極まりない。」と言うだろう。この両者の考え方の違いは一体どこから生ずるのだろうか。それは三十メートルもの高さや、切り立った 崖の危険なイメージが先にたち、後からそのイメージにかぶせて真っすぐな道を思い浮べるからである。幅一メートルの道という基本的な条件は地上にあっても三十メートルの高さにあっても何ら変わらないのだが、イメージとしては全く違ったものになってしまうのである。

 また別の角度からの例で申し上げよう。ここに一組の恋人同志が居たとする。男性にとって相手の女性は、恋愛中は絶世の美人に見えている。しかしやがて恋が醒めてみると、それ程の美人ではなかったと自覚することがある。これを自分は騙されていたと感じたり、恋に目が眩んで判断力が鈍っていたのだと考えるのは間違いである。何故ならそれはまず自分自身の中に美人というイメージがあって、そのイメージが恋人に投影されていたか ら、絶世の美人に見えたのである。つまり美人というイメージの力によって自分が惑わされていたと考えるほうが正しい。
 これらの例からもお分りのように、人は複雑で難しい問題に直面すると、直ぐに自分には到底解決することの出来ない問題だと匙を投げてしまう。ところが一見複雑に見える難問も、事実を丹念に根気よく見極めていきさえすれば、必ずほぐれてゆくものである。どんなに困難な問題であろうと、その成り立ちは単純な事柄の幾重もの組合せからなっているのであって、その仕組みを見極めさえすれ ば必ず解決出来る。対象を表面的なイメージだけで難しく見てしまったなら、物事の核心を得ることは出来ない。
 ではいかにして事実を正確に見るかであるが、それは″諦観″することである。即ち明らかに観てゆくのである。ただ漠然と観るのではなく、ものの本質を観るところまで一歩進めてゆくことだ。こう言うと人は直ぐそんなことは言われなくても充分良く見ていますと言うが、実は何も見えてはいないのだ。何故ありのままに見えていないのか。それは 「欲」があるからだ。欲は曇りガラスのようなもので、自分を晦ます障害になる。だからどうしても欲を捨て去って、曇りガラス を取り除き、明らかな視野にしなければならない。そこには徒にイメージに振り回され、右往左往する自分はない。
 ところがそう簡単には欲を捨て去ることが出来ない。理屈では解っていても現実となると、なかなか難しいのである。度々の喩で恐縮だが、欲と言うのが丁度海面のようなものと考えてみる。それは終日穏やかな時もあれば、台風の為に大荒れという時もあり、海面の様子は様々だ。しかし海全体を断面で切り取ってみたとすると、海面の変化とは、ほんの薄皮一枚程度にすぎず、その下には深く静 かなる海が無限に広がっているのである。
 さて話を元に戻すが、我々にも、欲しい、惜しい、憎い、可愛いなどと、一時も止まることなく様々に変化する心がある。そこで欲しいという心が起きてきたら、それを入口にして、心の深層に迫ってゆくと、ただ単に欲しいだけではない違った視点があることに気付く。そこには″欲しくない″という逆の世界が広がっている。しかしそこに到達するのは並大抵ではない。相当な努力と苦痛を乗り 越えてはじめて行き着くことが出来る。もしあなたが心の表面に蠢く「欲」 の虜になって振り回されている自分に気付き、そんな日々に人生の虚しさを感じたら、その時こそどうしてこうなるんだと、きめ細かく我が心の内に向かって探求してゆくチャンスである。そうすれば必ず波のない静かな本来の海の姿が見えてくるはずである。

 今は全てに渡って便利になり、何事も速く出来るようになった。確かに日々の暮らしの中で目に見える事柄についてはその利便さを大いに享受しているわけだが、さて心の世界の問題となると、却ってこのスピードが障害になってくる。人と人との交わりでもバシッと本心をぶつけあうようなやり取りは殆ど無くなった。人々は互いに益々孤独になってゆくのだ。スピードに流されることは新幹線に乗って外の景色を眺めていることのように、 目の前の猛烈を変化をただ傍観しているだけで、実は何も観てはいないのだ。こんな日々を続けることに一体どれほどの価値を見出だすことが出来ようか。何としてでも欲を捨て去り心の深層に迫り、本当に″生きた″人生を皆が送って欲しいと願っている。
 

 

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