1994年5月 一期一会
 
 人生は果ないもので、飯のうわばの湯気の様なもの、忽ち跡形もなく消えてしまう。
 数年前の四月上旬のこと、一人の雲水が死んだ。朝三時半に起床、本堂に出頭し約四十分程の朝の勤行、それが済んで最後の三拝中バタッと倒れ、救急車を呼ぶ間もなく、見ている前で死んだ。周りの者は唯唖然とするばかり、まるで夢を見ているようであった。
 早速彼の寺へ電話で連絡、事の次第を申し上げ、直ぐ来て頂くことにした。ご両親と兄さんが到着したのは其れから数時間後のことであった。道中どんな思いで来られたのかと思うと心が痛む。
 本堂下間の間に安置し、既に冷たくなった彼を見るなり、お母さんは額に頬をすり寄せて号泣した。しんと静まり返った本堂に、彼を取り囲むようにして同僚の雲水達が見守っていた。外は此の季節には珍しく北風がビュウビュウ音をたてて吹き抜けている。沈黙の時が流れ、心の底まで冷たさが凍み渡る様であった。二十六歳の果ない一生はこうして終わった。そんな衝撃的なことがあって以来、 一層死と言う事を考える様になった。
  修行時代、門前に大変立派な老庵主さんが居た。何時も雲水達の繕い物や、村の年寄の良き相談相手に成っていた。日頃の生活ぶりは清貧そのもの、既に八十を過ぎていたが、尚矍鑠としていた。既に歯は全部抜けてもぐもぐやりながら、沢庵でも固い豆でも何でも食べる。「庵主さんどうして入歯をしないの」と聞いたら、「そりゃあ、お金が無いからだ」と涼しい顔をして言っていた。「でもね、人間ってよう出来たもんで、訓練すると どんな固いものでも歯茎が丈夫になって食べれるようになるよ」顔中皺だらけの顔に皺を寄せて、にこっと微笑んだ。
 暫らくしてひょんな縁から若い庵主さんを弟子に迎えた。若いと言っても既に五十は過ぎていたと思うが、この人も負けず劣らぬ願心の有るしっかりした人であった。立派な人の処には矢張り立派な弟子が来るものである。
 何事も自給自足が原則で、風呂桶の蓋が古くなったといって、そこいら辺から板を調達し、捻りっぱじまきで、大工さんよろしくシュシューと鉋をかける。その格好が誠にさまになっていて、「うちには女大工がいるわい」と老庵主さんが冷やかし半分、にこにこしながら話していた。
 万事がこんな風で、裕福を羨むでも無く、卑屈にも成らず、淡々と自分の型を守ってくらしていた。私などもよく繕いものをしてもらった。衣も着物も入門当初のものは数年もするとぼろぼろに成ってくる。法衣屋さんから買うと高く付くから、反物だけ注文して、身に付けるもの全て此の二人の庵主さんに作ってもらった。「うちは僧堂の侍者寮だからなあ」と何時も言っていた。
 或る年風邪をこじらせたのが引き金で、肺炎を起こし何日も寝込んだ。愈此れでは駄目だというので、漸くお医者さんを呼んで治療、お陰で一命を取り留めた。「人間て丈夫なもんだよ、もう死ねるかと思ったら、中々死ねんなあ」とにこにこしながらまるで他人事の様にして言った。
 やがて私も道場を下がり、住職してからは年に一、二回お尋ねするという具合であった。お目に掛かって特別何を話すという訳でもないが、唯会っているだけで心が暖まる様だった。そんな時愈お暇の挨拶をすると、目に一杯涙を溜めていた。其れが私には不思議でたまらなかった。
 或る時弟子の庵主さんに「貴方うちの老庵主がどうして何時も涙を流すのか解らないでしょう」と言われた。そのとおりだと答えると 「それはね、この世で貴方に逢えるのは、これが最後だと思うからですよ。もう二度とお目に掛かることが出来ないと思うと、別れるのが辛くて涙が零れるんですよ」我々は毎日、沢山の人と会って別れているが、此れが今生の最後などと、つゆほども思った事は無い。随分いい加減に会ったり別れたりし ている訳である。そんな繰り返しの中に充実した人生はない。
 人は青春時代は素晴らしいと言うが、私はそうは思わない。何故なら死の裏付けの無い生は虚ろだからだ。人間は死を知って初めて生き生きとした生を生きることが出来るのだ。死が遠い存在で、日々の生活の中に生きる事しか無い様な時は、実は本当に生きていなかったのだと言いたいのである。
 最初果なくも二十六歳の短い人生を終わった雲水のことを書いたが、たとえ八十、九十の長寿を全うしても、如何に生きたかが問題で、単純な時間の長短で人生を計ることは出来ない。一期一会というが、それは死を見つめ続けたものだけが知りうる、ぎりぎりの境地なのではないかと思っている。
 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.