第四十九回  検単

坐禅は専ら禅堂で坐るわけだが、これを規矩坐(きくざ)と言って、直日(じきじつ)の指導のもと整然と行われる。堂内では規定(きじょう)でこと細かく決められており、一挙手一投足決まり通りにやらなければならない。私がまだ新到(しんとう)のころ、解定(かいちん)後単箱の中に仕舞っておいたものをどうしても出さなければならなくなり、そっと音を立てないようにやったら、途端に隣単の者から叱責を受けたことがあった。その他にも数え上げたら切りがないほど沢山決まりがあって、先輩からその都度叱られながら徐々に覚えて行くのである。
  新到にとっては、ただでさえ万事不慣れな上に、幾つもの決まりで雁字搦めになるので緊張感は更に増す。僧堂では原則何事も教えず、周りのやることを見ながら自分で覚えて行くのである。


『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

だから当然スカタンばかりで、カラスの鳴かぬ日はあっても叱られない日はないということになる。こう言うと、そんな日々では気弱な者はとても耐えられないのではないかと思うかも知れないが、実際に中に入ってみるとそんなことはない。それは一切他事(よそごと)はなく、朝から晩まで修行一途(いちず)だからである。これは僧堂修行全般に言えることだが、一途に物事をやっていれば、恰も独楽(こま)が猛烈な勢いで回っているとき、止まっているように見えるのと一緒で、端から見るほどえらいことはない。しかし一端気持ちが離れたら、日常のことは勿論、室内はなおのこと行き詰まってしまう。僧堂では、如何に心を修行の方向に保ち続けられるかが最も重要なことなのである。
 さて年間のスケジュールは一定不転(いちじょうふてん)で、毎年同じことの繰り返しである。中でも大接心(おおぜつしん)は最も重要な行事で、通常年六回、各一週間集中的に坐禅を組む。晩開板後一時間ほど老師も一緒に坐る。その後にすぐ喚鐘が打たれ参禅となる。参禅が終わると知客さんの堤燈の先導で老師は禅堂に向かう。竹篦(しっぺい)を合掌の手の上に横たえ単頭単(たんとうたん)の上(かみ)から侍者(じしやつ)さんの前へ、次ぎに直日単(じきじつたん)の下から一番上の直日さんのところへと移動する。
この時坐禅を組む雲水を一人一人、入念に観閲するのである。直日さんの前から一転して再び単頭単へ移動し、これで検単は終了、直日は鄭重に一礼し送る。この検単だが、大人数の場合などでは、本当に全員が元通り単に坐っているかを検閲するというのが始まりらしいが、今日では喚鐘中に行方を眩ますなどと言う雲水は居ない。それよりもどれ程、それぞれ充実してやっているのか、雰囲気を察知するためである。ただすっと前を歩くだけでどれ程のことが解るのかと思うかも知れないが、坐禅を組む雲水の体から発せられる空気で、直ぐに判るものだ。論より証拠で、命懸けでやっている者なら、殺気がびんびんと伝わってくる。また反対にいい加減な修行をしている者は、緩んだ空気が伝わる。これは万言に勝るもので、そう言う雰囲気を察知しながら、老師は堂内をゆっくりと一巡し、やがて隠寮へ引きあげて行く。検単される雲水にとっても緊張の一瞬である。


 
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