第四十六回  工夫

僧堂修行では万事に工夫が必要である。それは公案の拈提工夫から日常の作務まで、あらゆるところに至る。特に入門当初直ぐに与えられる公案は、従来の常識をもっては全く解決できない難問で、丁度真っ暗闇に頭を突っ込んだような状態になって、お手上げとなる。そうは言ってもその答えを朝晩必ず提示しなければならないのだから、何とか工夫して答えを拈り出すより他ない。そこで頭の中は寝ても覚めても、公案一色となり、ただそれだけを思い続けるのである。「想い出すよじゃ惚れよがにすい、想い出さずに忘れずに」。片時も心から離さず温め続ければ、やがて自分がそれまで理屈で考えていたことが無意味だったかと解り、自分の内に向かって深く極めて行くようになる。そうなると余分な計らいは一切なくなり、自然体な自分に成ってくる。ここに至って初めて本当の工夫が生まれるのである。だから一辺はこういう状態まで自分を追いつめて行くことが必要不可欠である。この境地は、ひたすら坐禅を組むことによって得られもので、工夫とは、世俗で言う妙案をちょいっと拈り出すというような沙汰ではない。


『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

また、「道中の工夫、静中の工夫に勝ること百千万倍」と言われ、じっと坐禅を組むことだけが唯一の方法ではなく、日常の仕事、例えば飯炊きや読経、畑を耕したり托鉢に出掛けたり、他にも雑巾掛けや箒作りでも、ともかく一心不乱に成ってやれば、その中で本当の公案工夫が生まれるのである。
私が修行した僧堂では山作務が多かった。裏山に分け入り雑木を切り倒し、適当な寸法に切っては斧で割る。雑木でも椎やクヌギ、ナラなどは比較的質が良いのでスパッと割れるが、くねくねにひん曲がった赤松など 節だらけの木になると、どこに斧を振るってもびくともしない。全く始末に悪いとはこのことである。その後、老師に成られた耕さんは、「ちょっと俺に斧を貸してくれ。」と言うが早いか、四,五回も打ち下ろすと忽ちバラバラにした。これには驚いた。「お前さんら〜は工夫が足らんのだ」。つまり工夫というのは観念的なものではなく、現実の活動の中で論より証拠として現れなくては駄目だ。口先だけで上手にぺらぺら言えても、実際が伴っていなければ、真の工夫とは言えないのである。

このために書籍筆硯を弄することなかれで、たとえ禅に関する書物でも読むことは禁じられている。頭を空にしてひたすら工夫すれば、やがて初関も通り、本則を数えるようになる。次ぎに「著語」と言って、見解が通るとその境地と同じ内容を表現をしている語を、禅林句集の中から探して提示するようになる。ここで初めて文字を見ることが許されるのである。公案三昧、作務三昧、兎も角、成り切ることが何より大切なのである。

 
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