第二十四回  暁 課

 一に看経(かんきん)二に掃除≠ニ禅寺では言い、早朝に誦む朝課と同様午後三時からの晩課は重要な行事の一つである。通常の場合午後は大抵全員が作務(さむ)の真っ最中だから、皆を代表して殿司(でんす)役が一人で晩課を誦む。この時のお経は金剛経という長文の上、早口で誦むと舌がもつれて何とも始末の悪いお経だから、殿司役を命ぜられたら人知れず稽古をしておかなければならない。僧堂ではお経は ともかく早く、しかも精一杯大声を張り上げて誦まなければならぬ。但しこのお経だけは諳んじずとも、お経本を看ながらで良いことになっている。しかしすらすらと立て板に水のごとく誦めるようになるには少々骨が折れる。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

小僧の頃師匠と火鉢を挟んで相向かいになり、お経の稽古をさせられる。間違えるたびに火箸で頭をこつんと叩かれて、涙を浮かべたなどと言う昔話をよく先輩から聞かされたものである。同夏 (どうげ・同時期入門のこと)の範さんがあの長文の金剛経を空でべらべらと読み出したときには良くも覚えたものだと吃驚仰天した。私などは師匠から火箸でびしばしというような経験もなく万事いい加減に育ったから、読みにくい箇所にさしかかると途端にお経はぐちゃぐちゃになって何とも恥ずかしい思いがした。
 学校での寮生活の時、舎監からのこのお経で徹底的にしぼられた話なども後輩から聞いたことがある。三回詰まったら冷たいタイル敷きの床に正座をさせられ、他の者が終わるまでじっと痛いのを辛抱したそうで、聞いただけでこちらまで痛くなるような話だ。しかしそう言うしごきのお陰で全員すらすらと誦めるようになったと言うから、何事も厳しい訓練が太切である。
 制中に入り大接心ともなれば当然全員で誦むことになる。お経の声は高音の者低音の者など適当に混ざった状態で誦むので、それが図らずも不思議なハーモニーとなってなかなか素晴らしい男声合唱となる。以前アメリカのご婦人が数名やって来た折り、親族の供養をお願いされ二十数名の雲水でお経を挙げたら、教会の讃美歌より素晴らしいと絶賛されたことがある。雲水のよむお経には何処かに魂の籠もった感じが あるのかも知れない。
 一般的にはお寺ならいつもお経をよんでいるようにおもわれるか知れないが、必ずしもそうではない。確かに葬儀や法事でよむことはあるが、意外とその外にはよまないお坊さんも多いのが現実である。その点僧堂は違う。看経そのものが即修行に直結しているので、晩課などの行事も決して疎かにはしない。約三十数分間、午後の境内に響き渡る雲水の勤行はこれを境に、薬石(夕飯)夜坐と続く一日後半の修行の区切 りとなる行事なのである。

 
 
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