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2021年03月24日

僧堂師家

師家とは修行者の指導役である。これには大まか二種類ある。殆ど雲水のやることに任せて、いわば自主性を重んじるやり方と、雲水は所詮ただの小僧っ子、ビシバシ徹底的に管理してゆくやり方である。そのどちらが良いかは一概には言えないが、未熟な雲水に法に適った自主性なんぞないと断言して良い。聞こえは良いが、結局それは指導怠慢・管理放棄である。しかしこれを雲水の方から見れば、こんな結構なことはない。やりたい放題サボりまくっていても、修行歴は同じにつくのだから。つまり一口に僧堂修行と言っても、大きく二種類在って、修行履歴をつけるのが中心で、だからできるだけ楽をして履歴稼ぎをするという手合い。もう一方は履歴なんぞどうでも良い事で、純粋に修行したいから長い年月頑張り、結果自然に履歴がついてくる。同じ雲水修行でもこの違いは実に大きい。師家の立場からすると、純粋に修行のために頑張ってほしいと願うのだが、所詮、志のない者は如何ともし難い。願わくば、最初入門時は志は低くとも、僧堂で修行している内に、そう言う自分を恥じ、純粋に修行のために努力を惜しまない修行者になって欲しい。しかし現実にはなかなかこうはいかない。結局、修行はその人の持って生まれた資質による。資質のないものにはどんな指導もお手上げで、猫にワンと吠えろと言ったって無理。

投稿者 zuiryo : 2021年03月24日 09:05

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