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2012年03月08日

闘う仏教

先日お願い事があり管長猊下にお目に掛かった。その折り最近出版された本を頂いた。曰く「闘う仏教」、えらい過激な題だな~と思い、帰路車中で早速拝読させて貰った。この本は管長猊下と対本宗訓師の対談集である。この対本老師は以前佛通寺派の管長をされた方で、その後お寺の世界からは離れて大学の医学部に入り医者になった方である。一派の管長にまでなった方がどういう事情か知らないがポイッと捨てて今度は医者になるというのは理解できなかった。お坊さんをやってるよりお医者さんになった方が良いと思ったからこのように大変身をされたのだろう。まっ、医者になるのはそう簡単なことではないが、結局僧侶に魅力を感じなくなったと言うことであろうか。うちの近くにも和尚さんでお医者さんという人が居る。この方の場合は檀家が一軒もない小さなお寺のため、何とか他に生活手段を講じなければならないという事情から医学を志し、晩年まで勤務医となりお寺と家族を支えられた。しかし修行をやり上げ一派の管長に推挙されその地位に居られた人がこのような変身を遂げるというのは珍しいれいである。私はやや批判的に見ていた。家が寺だから何となく僧堂に行ったと言うのが本音なのかもしれないが。大変身して医者を一生の仕事として選んだのなら、以後は自分で見つけた医者としての生き方を貫いたらいい。ところが大学卒業してから妙に宗門にすり寄ってくる。又宗門の側でも、こいつは偉いやっちゃ、「僧医」などと言って、管長と医者が合体した希有な人物という評価をするようになった。とまあこういう先入観を以て彼を見ていた。そこでまずは虚心坦懐になって管長猊下との対談集を熟読させて貰い、話はそれからだと思い一気に読んだ。読後感を申し上げれば、医者としてもまだ卵、二兎を追う者は一兎をも得ずにならぬよう医者として一層の精進努力が必要だと感じた。まっ、決して浮ついた感じでないのが救いである。さてこの表題「闘う仏教」だが、意味は「行動する仏教」と言うことらしい。「はじめに」の文中にもあったが、葬送儀礼に専従し、社会活動が疎かになっている現代の仏教徒に、厳しく自己に問いただし広く社会に貢献できるよう意識を革める必要があると指摘している。この点についてはうちの寺の信者さんで何でもずばずば仰る方が居て、山門に柵をして一般参詣者はお参りすることも出来ないのはけしからんと言う。又歳末のホームレスへの炊き出しなども、やっているのはキリスト系ばかりで、仏教のお坊さんは一人も居ない。青年層の会というのが歳末托鉢を半日ぐらいやって、助け合い募金に充てるようだが、これぐらいのところでお茶を濁している。しかし一般の方には総じて門戸を閉ざし社会から隔絶しているあり方には不満があるらしい。昨年の東日本大震災、津波の襲来など不幸の極みであるが、我々はこの災禍から得た大きな教訓を学び後世に伝えて行かなければならない。これを転機に僧侶の社会参加への大きな転換になって行くことを希う。これは私自身への戒めでもある。

投稿者 zuiryo : 2012年03月08日 11:21

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