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2012年01月07日

焚き火

僧堂では特別な部屋をのぞいてどこにも火の気はない。だから冬の寒さは身に染み、さらに足袋を履くことが出来ないので、氷のような板の間に立つと、脳天まで突き抜けるような寒気に震え上がる。しかしだからといって僧堂は無慈悲な所ではなく、時と場所を決めて焚き火で暖を取ることが出来るようになっている。早朝午前3時に起床、朝の勤行・坐禅・喚鐘・雑巾掛け・粥座と、一連の行事が終われば、作務出頭までの小一時間お待ちかねの焚き火となる。禅堂北側に、東司・洗濯場・焚き火小屋と仕切って、全体がひとつの小屋になっている。危なくないように特製の鉄釜があり、後の始末も蓋で覆って火の気が飛び散らないように安全に配慮して作ってある。燃やす薪類は裏山の枯れ木を集めてきたり、廃材を切って堆く積んであり、あとは火を付ければ皆が車座になってあたることが出来るというしだいである。ところが近年岐阜市では煙を出してはいけないという厄介な条例が出来、この焚き火もピンチを迎えた。しかし幸い僧堂は門前市街地からずっと奥まったところにあり周囲は鬱蒼とした山に囲まれているので、上手に燃やしてなるべく煙が出ないようにやればOK!何と言っても冷え切った手足には木を燃やして暖を取るのが一番である。犬山のモンキーパークの猿も、焚き火にあたってから、焼き芋を食うのが楽しみである。焼きたての芋を小脇に抱えて他の猿に取られまいと脱兎の如く走りさる姿は風物詩になっていて、毎年テレビで放映される。猿でもあたる焚き火を今年はこの寒さにも拘わらずしないというのである。いったいどうしたのか不思議に思って尋ねると、生まれてこの方凡そ焚き火をしたことが一度もないので(暖房は全てエアコン)、火が怖いというのだ。これには驚かされた。確かにスイッチ一つでぴたっと止まるエアコンに比べれば、焚き火の火は瞬間に消えることはない。しかし管理さえきちんとしていれば、火は決して危ないものではない。一回一回水を掛けて消すので、次に付けようとするとくすぶって旨くいかないので、こんな厄介なのは止めておきましょうと言うことらしい。時代もここまで来たかと唖然とした。雲水時代、焚き火小屋であたりながら、頂いてきた大きな鏡餅を一人1ケづつあてがわれ、それを燃えさかる火中に投げ込んで、黒こげになったのを引っ張り出して、上の柔らかな部分にかぶりつく。これを繰り返し1ケ食い尽くす。口の周りは黒こげの炭で南洋の土人のようになった。こんな昔のことがふと蘇った。

投稿者 zuiryo : 2012年01月07日 16:07

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