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2011年01月04日

窮屈な幸せ

今朝年始の挨拶にやってきた和尚さんから聞いた話の受け売り、(その和尚さんも新聞に書いてあったので・・・と仰っていたから、受け売りの受け売り)で恐縮だが、ご紹介させて頂く。一家5人、炬燵に足を突っ込んで暖を取っていると、お姉ちゃん曰く、「四角い炬燵に5人だと窮屈でかなわん。誰か五角形の炬燵を考えてくれないかな~」と言った。な~るほど!ごもっとも。すると末娘が、「四角形で良い、いつもお母さんが私の処へ入ってきてくれるから、余計暖かい」と言った。な~るほど。五角形に仕切ってしまうより窮屈でも皆が寄り添って暖まる方が数段温かいというわけである。私も小さい頃、子供部屋などと言う贅沢なものはなかったから。夕食後は家族全員が一部屋で、母は針仕事・父は新聞を読み・ラジオを聴く者・宿題をやる者・漫画を読む者、それぞれてんでバラバラなことをしていたが、部屋全体では実にしっくり纏まって、目には見えないが家族の絆はしっかり繋がっていたように思う。これは貧しかったから、窮屈でも寄り添って暮らさなければ成らなかったからである。そう考えると、豊かになって子供部屋が独立し、それぞれにテレビやパソコン・オーディオ、更にエアコンが効いた快適な部屋になると、却って家族の絆は失われ、心の温かみはなくなる。つまり豊かさが障害になっているのだ。考えれば何と妙な話ではないか。結果、自分のことしか考えない利己主義的人間が増えて、果ては死んだ親の年金で暮らすなどという酷いのまで出てくる。今経済が豊かになったからだと言ったが、もっとよく考えてみると、それは経済の問題ではなく、確実に心が貧しくなったからである。では何故心が貧しくなったかだが、信心が薄れてきたからではないかと思う。つまり目に見えるものだけを信じて、目には見えないが歴然として存在する「たましい」の世界を見ようとしないからである。今仮に魂と言ったが、目を閉じて耳を澄ませば聞こえてくる心の深奥の声なき声である。

投稿者 zuiryo : 2011年01月04日 11:04

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