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2009年07月09日

このところやたら知人友人が癌で倒れる。2,3年前から有志が集い、ある漢学者を頼んで勉強会を始めた。論語・朱子学・仏教等々、S先生の話しは多岐にわたり、毎回楽しみにしていたのだが、今年の正月急に、一時中断しますという連絡を頂いた。聞くところに寄ると、癌に罹って目下療養中と言うのである。先生は元々大変な愛煙家で、いつもたばこは口から離されなかったので、てっきり肺癌と想像した。6月初め久しぶりに講義が再開され、冒頭今の病状について克明に話をされた。それに寄れば、事態は相当深刻な状況のようである。手術はせず、抗癌剤治療もせず、自然に任せ生きれるだけ生きると腹を決めたというのである。1月の時点で余命6ケ月と宣告されたと言うが、6月初めにこうして講義に来られたのだから、先生の生命力はまだ保ち続けているのである。先生曰く、「この世に自分が生まれた価値は何んなのだろうか?」ずっと考え、得た結論は、「無い」ということだった、と言われた。「何もない」、と解ったそうだ。ある大学の学長をされているのだが、これも変わりは幾らでも居る。学問ではどうかと言えば、漢学者は他にも沢山居て、変わりは幾らでもある。では家族にとって自分はかけがえのない存在かと言えば、必ずしもそうではない。4,5年もすれば自分のことなど忘れて、「今年の夏はハワイに行こうかね~。」と、顔つき合わせて相談するのが関の山。この世に自分が存在する価値など何一つ無いと解った。こう淡々と話しをされた。この「何もない」はそう簡単な話ではない。たとえ健康で長寿を保つことができたとしても、いずれは死んで行かなければならないわけだが、さて、いまわの際に自分の一生をどのように振り返るのだろうか。結局何も無かったのだと思うのだろうか。「・・・浪速のことは夢のまた夢」と太閤さんは言ったそうだが、他山の石とせず考えて置きたいものである。

投稿者 zuiryo : 2009年07月09日 10:51

コメント

読ませていただいています。
毎日、開いては更新なっていないとがっかりしますので、今後とも穴あけずお願いします。

投稿者 jion k : 2009年07月09日 20:05