つつしみ
 
 

 近年、凡そ「つつしみ」とか「わきまえ」というものがなくなった。混み合う電車の中で若い女性が平気で化粧をしていたり、女子高生が通路にしゃがみこんで、大口開けてパンをかじっているなどというのは、これでも日本人か!と言いたくなる。そいうはなはだしい例は別にしても、かつて当たり前に慎みとしていたことが、今では殆ど見られなくなった。ここに江戸時代の武士や町民、農民にいたる、それぞれのわきまえ、気くばりを、片時も忘れぬように生きた日本人の姿をご紹介する。

 権藤成卿は、旧久留米藩士だった老人の一挿話を伝えている。ある日、孫娘二人が旧藩主の祝事に招かれ、姉妹は拝領の縮緬の紋付き着て、行って参りますと挨拶に来た。すると、老人は苦々しげににらみつけて、「不たしなみの奴どもだ」と叱った。傍らで見ていた権藤が理由を問いただすと、老人は「かようの場合においては、必ず召された屋敷にて衣装を着くべきものである。これは近隣世間に対する身だしなみというもので、その身だしなみの心得は、自分の心に諮り、朋輩その他に羨(うらや)まれ、世間に目立ちはせぬかという程合いを考え、これをその身に行うことである」と語ったという。江戸時代の人が日頃、こんな「たしなみ」ばかり気に掛けて暮らしていたら、さぞかし息の詰まったことだろうと、現代人は想像しがちである。ところが、こういった気くばりやたしなみは、いったん幼少時から身につけてしまえば、何と言うこともない習慣で、「不たしなみ」を咎(とが)められはせぬかと、四六時中戦々恐々としていなければならぬわけでもなかったようだ。江戸期の日本は隣近所に対して、常に然るべきつつしみ、わきまえがあり、だからと言って、日常の伸びやかさを押さえつけるものではなかったようだ。この時代の暮らし方は、率直で飾り気がなく、しかも無邪気で人なつっこさを尊んだ。赤児のような純真きわまりない人々であった。
  天明寛政の頃、ある僧が江戸からの帰り木曽山中で馬に乗った。道の険しいところに来ると、馬子は馬の背の荷に肩を入れて、「親方、危ない」と言って助ける。あまりに度々なので僧がその故を問うと、馬子は「おのれら親子四人、この馬に助けられて露の命を支えそうらへば、馬とは思わず、親方と思いいたわるなり」と答えた。この馬子は清水の湧くところまで来ると、僧に十念を授け給えと言い、僧が快諾すると、自分の手水を使い、馬に口をすすがせ、馬のあごの下に座ってともに十念を受けた。十念とは南無阿弥陀仏の名号を十遍唱えることをいうのであるが、この男は僧を乗せるときはいつも賃金は心任せにして、その代わりに僧から十念を受けて、自分ら家族と馬とが仏と結縁(けちえん)するよすがとするのだと言うことであった。江戸期の日本人はこの男に限らず、馬を家族の一員と見なしていたようである。明治の世になり、ある外国人が馬を乗り継いで東北縦断の旅をしたときも、難所にかかると馬子が馬に励ましの言葉をかけ通しだったと記している。こういう情愛は、牛・鶏から犬・猫にいたるまでに及んだようだ。
 またこんな話も残っている。勝海舟の父、小吉は婿養子に入ったのだが、勝家の父、平蔵の説教に嫌気がさし、十四歳の時出奔、上方へ行って身を立てようと考えた。小吉の家出話で興味深いのは、十四歳の少年がどうやって伊勢まで旅をし、またどうやって江戸へ引き返したのかである。小吉は浜松の宿で金から刀、着物にいたるまで全財産を持って行かれた。途方に暮れて泣いていると、宿の亭主が柄杓(ひしやく)を一本くれて、これを持って御城下を廻れというので、言われたとおりしたら、銭が百二十文、米麦が五升ほど溜まった。無一文の少年がこの先旅を続けるには、お伊勢参りのなりをするのが一番だったのである。さてこの小吉少年の家出話で印象的なのは、道中多くの人がこの放浪児に声を掛けていることだ。ある夜地蔵堂で寝ていると、男から起こされた。伊勢参りと知ると、ばくち場へ連れて行かれ、飯と酒を振る舞われ、お伊勢様へのお初穂とめいめい出してお金を九百文、むすびを三ヶくれた。嬉しくなってその夜地蔵に賽銭をあげて寝たという。道中事情がありそうな者をみかけると、決まってこのように声を掛けた。またいわゆるぬけまいりで、旅の用意もなく金も殆ど持たぬ者は、道中喜捨に頼るほかなく、当時巡礼に快く銭や食物を与える習慣があり、そうせずにはおれぬ情愛の深さがあったのだ。

 以上江戸期の人々の心情の一端を記したが、現代は気持ちにゆとりがなくなり、何処かギスギスしている。暮らし向きでは江戸期よりどれだけ快適で豊かになったか知れないのに、人々の情愛の深さということになると、我利我利亡者の利己主義で凝り固まった者の何と多いことか。逆説的に聞こえるか知れないが、豊かで便利で寿命も延びて、より幸せになったから、人間が駄目になったのだ。人間の命のはかなさを身近に感じていたから、見ず知らずの者にも情けを掛けずにはいられなかったのである。これは家族内でも言えることで、日本がもっと貧しかったときは、お互い懸命に助け合って生きていたから、家庭崩壊などとは無縁だったのである。
 

 

 

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