天才マウス
 
 

 天才マウスのことをご存知だろうか。プリンストン大学のツィエン博士が遺伝子操作で作った。このマウスのことがネイチャー誌で報ぜられると、世界に大きな衝撃が走った。遺伝子操作で動物の知能を向上させることができることが実証されたからである。いずれ人間も同じ手法で知能を向上させることができるようになるかも知れない。たちまち多くのバイオベンチャー企業、巨大製薬会社からアプローチがあったという。ツィエン博士は遺伝子操作を受けなかった並のマウスの、三倍以上頭が良いマウスを作ったのである。

こういう実験をした。水迷路実験と言って、水面下が見えないように不透明なミルクで作ったプールの中に、一ケ所、水面下スレスレの所に足場を作っておき、その場所を覚えていて、そこに素早くたどりつけば溺れない。その足場の上に乗っかって、水面上に頭を出したままでいられるわけである。しかし覚えなかったらアップアップしてしまう。こういう状況を作ってやると、並のマウスは場所をぜんぜん覚えられず、何度もアップアップを繰り返すのに、天才マウスは、一度教えたら(或いは自分で発見したら)サッとそこにたどりつく。 さてどのように天才マウスに遺伝子操作をしたのかというと、脳の中で働いているNMDA受容体のNR2Bタイプをふやしたのである。沢山の神経伝達物質とその受容体のうちでも、興奮性の速い神経伝達を担うグルタミン酸の受容体で、記憶など高次の神経機能にいちばん関係が深いとされている。なぜ記憶と関係が深いのかというと、ふつうの受容体が一種類の特定の信号を受け取ったときにだけ開くのにたいし、NMDA受容体は、特定の二種類の信号を受け取ったときだけチャンネルを開くという独特の性格を持っているからである。記憶というのは、何によらず二つの要素を結びつけることの上に成立している。例えば人の名前と顔、言葉の音とつづり、場所とそこにあるもの等々であり、何らかの結びつきを覚えることが記憶と言える。ということは、記憶の基本メカニズムは、このNMDA受容体の性格による二つの信号の結びつけ能力にある。もう一つNMDA受容体が記憶と関係が深いと推測される理由は、必要な信号の片方は、何らかの繰り返し刺激から生まれるという性格である。繰り返し刺激によって、神経細胞のシナプス部分の通りがよくなる現象である。頭で覚えることでも、体で覚えることでも、繰り返せば繰り返すほどよく覚えられると言うことは、誰でも体験事実として知っていることだろう。 
  さてここからが話の核心部分なのだが、天才人間作りは可能かと言うことである。しかしそれは単純には答えにくい。単にできるかどうかであれば、人間もマウスも大きな違いはないからできると思う。そして同じような効果があって、ある種の知的能力は向上するだろう。しかし記憶とか学習というような脳の高次機能がどのような仕組みで働いているのか、まだ解っていない。またそれによって知的能力全体がどのような影響を受けるかは解らない。さらに問題なのは、そういうことをやって良いのかどうかと言う倫理上の問題もある。では人間に対する応用は将来ともないのかといったら、そうではないと言える。その働きを向上させるような薬を開発するかも知れない。そういう研究開発はすでにスタートしている。要するに頭の良くなる薬である。おそらく最初はアルツファイマー病治療薬として使われるだろう。効果があり安全だと言うことが解ってくれば、普通の薬として一般に売られるようになるかも知れない。それが高価だと、金持ちはそれを買って頭が良くなれるが、貧乏人はそれが買えないのは不公平という声が出て、子供には国の負担でみんなに飲ませてやろうと言うことに なるかもしれない。今の子供がみんなインフルエンザワクチンを飲むように、頭の良くなる薬をみんな飲むようになるかも知れない。そして安全で効果があるとわかってくると、だんだん適用範囲が広がって、普通の老人性知的減退、いわゆるボケに対してもそれがおこなわれるようになるかもしれない。

要は何をもって健康状態と考え、何をもって治療を要する病的状態と考えるかの定義の問題である。アルツファイマー病など、何百年前は誰も知らない病気だった。いま、三十歳代を過ぎて記憶力、学習能力が落ち始めても誰もそれを病気と考えないが、将来は、それを病気と考えて、医者に行ったり売薬を飲んだりするようになるかも知れない。病気とノーマルな状態とは紙一重、治療と増強は紙一重、現代社会のように競争が激しいと、知的能力の向上にみんな熱心になり特に子供の能力向上に熱心だから、そういう時代になったら、みんな子供に頭が良くなる薬を飲ませたり、遺伝子治療を受けさせたりするようになるかも知れない。もちろんまだまだずっと先になるだろうが、そういうことになるのは時間の問題だと思われる。五十年百年たったら、どういうことが現実化するかは、今から予想することは全くできない。ここでツィエン博士が提示している、人間の遺伝子の働きにどこまで手を加えて良いか、これから大きな問題となるであろう。

 

 

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