野生の心
 

 私は昭和十七年、太平洋戦争の真っ只中に生まれた。
物心ついた時は戦後の混乱期で、ともかく食べ物がなかった。特に甘いものは極端に不足気味で、いつもがつがつ口に入るものなら何でも食べた。それが平均的日本人だったのである。わずかばかりの畑を一生懸命耕し、サトウキビを育て、絞って貴重な砂糖を作り、「カルメ焼き」を食べさせてくれた。小さな銅鍋に焦げ茶色の液体を入れ、掻き混ぜ頃合いを見計らって白い粉を入れると途端にぷ~っと膨らみ円盤状の菓子が出来上がる。甘いような苦いようなものだったが、このときの味は今でも思い出され、父の姿が目に浮かぶ。田舎の百姓生まれでいつも黙々と仕事をしていたが、溢れるばかりの親の愛情を感じる。戦後六十数年を経て時代は大きく変化した。今や食べ物はいたるところに溢れ、たやすく手に入るようになったが、ここで人間にとって食べ物の意味とは何かを、改めて考えてみる必要があるのではないかと思うのである。

 山際寿一教授はこのように言っている。『アフリカの熱帯雨林に野生に復帰したゴリラを訪ねたことがある。小さい頃に親を失い、孤児院に保護されたり、そこで生まれたりしたゴリラである。人間の下(もと)で育てられたゴリラを野生に戻し、数を増やそうという試みである。ゴリラを放すことによって、そこの生態系に大きな影響を与えてはいけないと言う配慮から、以前ゴリラが生息したことがわかっていて、現在絶滅した場所が選ばれた。川に囲まれた孤島のような森である。ゴリラは泳げないから、川を渡って他の場所に移動することはない。ボートで一時間かけて会いに行った。ゴリラとの出会いはとても印象深いものだった。二ヶ月前に放たれた十数頭の群れは、まだ野生の食物を殆ど口にすることが出来ず、餌を運んでくる人間をひたすら待っていた。鉄柵のこちらから果物を投げてやると、走り寄って貪り付いた。一方別の場所に数年前放たれた三頭の若いゴリラは、もう野生の食物を自分で取ってくらしている。しかしボートの音を聞きつけると水際まで駆け寄ってきた。三頭が肩をすり合わせるように並んで、私たちをじっと見つめている。その目が何とも悲しそうでいたたまれない気持ちになった。「何で僕たちを置き去りにしたの?」と訴えているような気がした。人間が好きで、人間と一緒に居たいのだ。野生の食物を口にしていても、心は人間のもとにある。本来の野生の心を持たせるのはとても難しい。毎日ミルクや食べ物をもらい、体を綺麗にしてもらい、抱いて不安な心を慰めてもらう。その記憶は長い間消えることがない。本来なら母親や父親のゴリラに育てられるはずのゴリラたちが、人間の世話で育てられた。このゴリラたちは自分の仲間より人間が好きになったのである。これは人間の子供にも当てはまる。「三つ子の魂百まで」というように、幼い頃の経験によって作られた心は、大人になっても変わることがない。生まれて初めて出会う人間に身の回りの世話をしてもらい、何もかも頼って暮らした経験が、人間を信頼して生きる心を作る。逆に幼い頃に虐待を受けたり、人に裏切られたりした経験は子供の心に大きな傷を残す。
  絵本に書いてはいけないことがあるという。それは、子供に食べ物を与えてくれる人を決して死なせてはいけないというダブーである。子供にとって食べ物を与えてくれる人は、世界を与えてくれる存在なのである。その人が居なくなったら子供の世界が消失してしまう。「赤ずきん」も「三匹の子豚」も、食べ物を与えてくれるお母さんは、いつも陰に隠れて子供たちを見守っている。それほど食べ物を与えるという行為は、子供にとっては神聖で侵すべからざるものなのである』。
 さて現在、食物があふれ、たやすく手に入る私たちは、子供に食べさせることをあまりにも軽んじてはいないだろうか。三年間もお乳を吸って育つゴリラに比べ、人間の子供はわずか一年足らずで離乳してしまう。しかし離乳したゴリラは直ぐに自立して食べ始めるのに対し、人間の子供は長い間食べ物を与えられて育つ。食事は単なる栄養補給ではない。子供たちに安心できる世界を提供し、信頼の芽を育てる大切な機会なのである。

  さて人間にとって野生の心とは何だろう。それは、仲間とともに未知の領域に分け入って新しいことに挑戦する心である。これはおそらく幼児の頃に形作られるのではないだろうか。そのために仲間である人間を信頼し、共通の目標を立てて一緒に歩こうとする気持ちが必要である。今、「個食」の食事風景が見られる。子供達は冷蔵庫の中から自分の好きなものを取りだし、たった一人ぽっちでケーキやたこ焼きに牛乳で終わりというようなことが日々繰り返されている。これではまるで犬や猫の餌と同じである。ここからは子供たちの野生の心は生まれない。創造的なチャレンジ精神は堅い信頼関係があってこそ成り立つのであり、狭い国土で資源もない日本人が生きて行くためには、食事のあり方が実は重要な意味を持っていることを再認識する必要があるのではないだろうか。

 

 

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