グレーゾーンの中
 
 私は人呼んで検査狂と言われるほど身体のことには心配性で、しばしばCTスキャンやMRIで検査して貰う。CTスキャンの大きなドラムに身体ごと吸い込まれるようにして横たわっていると、検査も必要があってやっているわけだが、それは同時に放射性物質によって汚染されるということでもあるわけで、何とも複雑な気持ちになる。つまり検査と汚染が重なり合ういわばグレーゾーンに自分が置かれていると思うからだ。知人などはここを指摘して、あなたはわざわざ放射能を浴びるために病院へ行ってるんですね~などと非難がましく言う。

 山折哲雄氏の文を引用させて貰う。『先頃、首都圏に直下型地震が発生した場合、甚大な被害と犠牲が予測されるという報道が流れた。その直前には南海トラフ地震により、最大で三十メートルを超える大津波が押し寄せるという予測もあった。列島全体に臨戦態勢さながらの緊張感が走った。いつの間にかマスメディアが取り上げるキャッチフレーズが「想定外」から「最悪の事態」へとエスカレートし始めている。それが専門家たちによるあれこれの確率予測とともにつみ重ねられ、不安と恐怖の相乗効果をいやが上にも盛り上げて行く。最悪の事態に備えるという合い言葉のもと、我々の生存の現実がそもそもグレーゾーンの中にあるという常識が打ち消されていく。
  いつ頃だったか「ゆらぎ」の理論で話題となった科学者や思想家がいたことを思いだす。文明の度がすすみ、生活の変化が激しくなると、社会は無秩序、不安定、多様性、非平衡などの現象がしのび寄ってくる。あらゆる場面に「ゆらぎ」の陽炎(かげろう)が立つというパラダイムや理論が流行したように思う。ところがそのような発想はいつの間にか、「想定外」とか「最悪の事態」といった掛け声のもとにあっという間にしぼんでしまったようにみえる。
  そのころのことだが、未来学者のアルビン・トフラーがピンポン球の運動をとりあげて面白いことをいっていた。例えば百万個の白いピンポン球と、同じ数の黒いピンポン球とをガラス窓のついたタンクに入れて交ぜ合わせると、乱雑にはね回っているうちにこのピンポン球の集団は灰色に見えるようになる。ところがガラス窓を通して観察しているうちに、それが黒か白に見えるときが不規則に生ずる。窓の近くのピンポン球が、分布に応じて黒や白に見えるのである。
  一般的には灰色に見えるはずだが、ときに想定外に、不規則に黒か白に別れて見えるわけである。それが最悪の事態か最善の状態かは、観察する側の主観のいかんによるということになるだろう。そしてこれが私の場合、さきの放射線検査か放射能汚染かの、いってみれば不安の二元論になる。常識的な生活感覚としてはグレーゾーンを生きることで気分がせっかく安定しているのに、ときに黒か白か、あれこれの選択をつきつけられて神経を脅かされる。「最悪の事態」などといわれて不安神経症につき落とされる。
  ここで少々理屈をいえば、西欧型の近代文明では、そもそも世界とは混沌から秩序にむかって発展進化をとげてきたという常識があった。カオス(天地創造以前の混沌の世界の状態)からコスモス(秩序と調和とを持つ世界)へ、という思考のベクトルがいつもはたらいていたように思う。宇宙の創造を語る神話がそうであるし、世界や社会の形成を分析する自然科学がそうだった。そしてその思考様式の背景にひそんでいるのが、頭では秩序志向、感情レベルでは混沌への恐怖というものだったのではないか。ところがこれにたいしてアジア的な思考様式では、カオスという状態は必ずしも負の価値を帯びているわけではなかったことに気づく。無や虚空、混沌の中には、実は秩序世界を支える根元的エネルギーが息づいていると考えてきたふしがあるからだ。たとえば仏教や老荘の思想である。とすれば、ここはやはり一度ふみとどまって、グレーゾーンの中で生き抜く道を探ってみてはどうだろうか。』

東日本大震災による福島第一原発事故は、原子力発電への危険性を改めて認識することとなり、管理していた電力会社や国に対する不信感は最悪の状態になっている。定期点検のために停止中の原発を始め、五十数基の原発はすべて再開のめども立たない状態である。原発が危険なのはチェルノブイリ事故やスリーマイル島の事故ですでに承知しているはずである。何も危険なのは原発だけではない。新幹線でも中国で起こった事故が、いつ日本で起こるかだれも予測できない。西日本鉄道での悲惨な事故を我々は目の当たりにしたではないか。便利さと危険は常に裏腹の関係にあり、これは保存料や着色料まみれになっている食品でも同様である。このようにグレーゾーンの中で生きざるを得ないのが現代文明社会に生きる我々の宿命である。電化製品で溢れかえり、安価に使いたいだけ使ってきた電力を供給するために、一つの方法として原発は選択された。単に反対していれば済むと言うことではない。我々自身でもう一度、成熟社会のライフスタイル全体を考え直してみてはどうだろうか。

 

 

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