貧乏の利益(りやく)
 
 近年、貧乏という言葉は余り聞かれなくなった。勿論この世から貧乏が全くなくなったと言うことではないが、国の手厚い保護によって、野垂れ死にする人が街に溢れるというような悲惨な状況は無くなったと云うことである。テレビなどで見るアフリカ難民の飢餓状態などから比べれば、日本は当に地上天国である。しかしこれはここ四,五十年のことで、それ以前は所謂貧乏は当たり前だった。私が育ったところは田舎だったので、学校に給食はなく、皆弁当を持って行った。昼になって一斉に弁当を広げる時間になると、必ずすっと居なくなる友達がいた。「あいつは弁当を持ってきてないんだよ」、という話を聞いて可哀想だな~と、思ったことを今でも覚えている。食べ盛りの年頃、校庭の片隅の蛇口を拈って水で我慢をするのかと思ったら、胸が痛んだ。

 作家の菊池寛や松本清張、吉川英治等々、貧乏の中から這い上がって、ついに高名な作家となった人は枚挙にいとまがない。これらの人達の文学形成に大きな要素となったのは、一つは家庭が貧しかったことと、もう一つは醜男であったことである。つまり女にモテなかったことが、菊池寛文学や松本清張文学を作り上げたと言える。家庭が貧しく、あんまり可愛くないから、生まれついての逆境である。だから人の人情に触れると、非常に感受性が強く働くわけで、作品にもそれが表れ、人を感動させるのである。吉川英治の少年時代も大変貧しい家庭に育った。父親は牧場経営や様々な事業に手を出したのだが、どれも旨く行かず、ついには裁判を起こしたり、敗訴し刑務所に入れられたりした。家運は急速に傾き、異母兄との確執もあって、英治は小学校を中退した。家は貧乏な上に沢山の子供を母親が懸命に働いて支えていたので、早く働いてお金を稼ぎ母親を少しでも楽にさせてやりたいと考えた。しかし小学校中退の子供に働く場は殆ど無く、ある新聞社の採用面接を受けたそうだ。面接と言っても相手は小学校中退の子供であり、仕事の内容も所謂使いっ走りだから、たいした遣り取りがあったわけではないだろうが、最後に、「あなたの宗教は何ですか?」と尋ねられた。すると、「自分の家は貧乏で宗教など考えるひまもない状態で、何も分かりません。しかし私にとって、自分達子供のために必死で働いてくれている母を、すこしでも楽にさせてやりたいと言うのが、私の宗教です」。と答えたそうだ。それが効いたのかどうかは分からないが無事採用され、それが機縁になって後年作家となる基礎ができたと言われている。本なども自分では買えないので、人から借りた本を丸暗記したそうだ。人は貧しいより豊かなほうが良いに決まっているが、もし金も潤沢で小使いも豊富だったら、本は買えただろうが、ただ読むだけで、丸暗記するという努力はなかったであろう。どのような逆境にあろうと、自分の気持ちを支え、何時かはひっくり返してやろうという気概に満ち溢れていたのは、やはり貧困の利益である。私は以前、「創造の病」という文章を書いたことがある。大きな壁にぶち当たって、絶体絶命のピンチに陥ることこそ、今まで気付かなかったことに目覚め、精神的に大きく飛躍するチャンスなのである。
立派な方々のことを書いてきた後に自分のことを書くのは憚られることだが、三十年前、図らずも見ず知らずのこの寺に赴任した。迎えに来られた和尚さんは、寺は供菓も充分回っており、ただお出で頂き、雲水の日常を見ていただければそれだけで良いので、後のことは何もご心配要りませんと言われた。これも縁と思ってやって来たのだが、住職一年目に、早くも全伽藍の大改築と開山五百年忌法要を執行しなければならない羽目に陥った。話が違うじゃないかと言いたいところだが、一端住職してしまえば、もうどこへも文句の持って行き場はない。この寺の置かれた状況がどうだったのかも全くわからないまま、爾来十年間、怒涛のように押し寄せる難問に日々立ち向かうこととなった。しかも僧堂とは名ばかりで、雲水もろくに居らず、よく小さな会社のことを、社長兼お茶汲みです言うが、師家兼雲水で、朝晩の大鐘を打つことから、庭掃除、草引き、雑巾掛けに至るまで、全部自分でやった。いよいよ目前に大行事を控えたときに、一番古手の雲水がなんと入門半年という有様であった。

 今過ぎ去った当時のことを思い出すが、その時私は絶望的だったかと言えば、決してそんなことはなかった。逆境の中手助けをしてくれる得難い人が次々に現れ、どれほど助けられ感謝したか知れない。それまで何事もなく漫然と暮らしていた時には味わえなかった、新たな創造が心の中にできた。逆境こそ尊ぶべきで、飛躍する糧になったのである。しかしもし負けていたら、浮かぶ瀬もなき哀れな生涯を送ることになっただろう。逆境こそまさにご利益なのである。

 

 

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