何もないということ
 
 ある方が来られて、仲間を集めますので、定期的に坐禅会を催して下さいませんかと頼みに来られた。結構ですと承諾して会が始まってから、早や二十数年の歳月が流れた。四月開講、十一月講了で、毎月第二と第四月曜日、午前六時十分から禅堂で坐禅を組み、約一時間後、その場で二十五分ほどお話しをし、食堂でお粥の朝食、場所を書院に移して抹茶とお菓子、午前八時には散会、各自その足で会社へ行くと言う段取りである。大半の会員は会社の経営者で、日々実業界で苦心されているところから、せめて月二回くらいは心を無にして、新鮮な気持ちで頑張りたいという願いである。私は殆ど修行の世界で生きてきた世間知らずなのだが、変化の激しい実業界で生き残ることは大変難しいことのようで、穏やかな気持ちにはなれないそうだ。たった一時間の坐禅で何ほどの効果があるかと、最初は疑問に思ったが、凝縮した時間をおくっている方々には、この一時間が貴重なのだそうだ。会員約六十人、皆忙しい中時間をさいてせっせとやって来る。ずっと私一人でお世話させていただいたのだが、一番困るのは毎回二十五分の話しである。聴衆は殆ど同じだから、手を替え品を替え、次ぎ次ぎに新しい話題を考えて行かなければならない。雲水相手の講座なら、修行の話しをしていれば良いので、話題に事欠くことはない。しかし一般の方々にそのまま話しても通じない。そこで一般向きに翻訳しなければならないわけで、これがなかなか難しいのだ。

 ざっと計算しても年十五話、それが二十六年だから、三百九十話である。よくぞ同じ話しにならぬようやってこられたと、我ながら感心する。しかしさすがにこのところスランプに陥り、もう何も出なくなってしまった。いつも坐禅会の始まる四月までに、一年の半分の八話くらいは予め作って文章にしておく。そうでもして置かないと、期限が近づいてせっぱ詰まると、頭がパニックになって、その苦しいことと言ったらないからだ。何でこんな苦しい思いをしなければならないのかと、気軽に引き受けた自分の浅はかさを思い知る。今更悔いても仕方のないことで、兎も角やり抜く以外にはない。まっ、ものは考えようで、窮したと言っても命まで取られるわけではなし、と腹を据えた。しかし一昨年、十一月にその年度が終了し、打ち上げ会が催された折り、来年度、話しのネタ切れになったときは、代わりに雑巾掛けをして頂きますと申し上げた。万一を考えて予防線を張ったのだ。それを聞いた会員達は「え~っ!」と絶句していたが、こうでも言っておかないと、こっちも困るので、一方的に宣言した。ところが不思議なことに、途端に心が軽やかになって、翌年四月までには驚くほど次々に話題が出てきて、あっという間に十数話出来上がった。小心者の私は、万一の場合雑巾掛けで切り抜けられるという安心感で心に余裕が出来たからである。
さて、翌年の十二月打ち上げ会の時に、昨年雑巾掛けで誤魔化そうとした私の怠慢を詫び、以降は石にかじり付いてでも、必ず話しをしますと宣言した。ところが今度はそう言った途端にスランプに陥り、全く話題が出てこなくなった。何とも皮肉な現象である。そこでどうしてこうなるのかいろいろ考えた。私が話しをする場合、どんな内容でもそれらが総て禅に繋がっていなければならない。ではその禅とは何かと言うことだが、それは「何もないと言うこと」である。何もないのなら、そのどこに禅があるのか、全く矛盾した話しだが、結局私達の何十年という修行は、何もないと言うことを突き詰めて行くことに他ならないのだ。これを理屈や道理で解釈しようとすると、訳が分からなくなる。道元禅師の詩に、「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪冴えて冷しかりけり」というのがある。単純に解釈すれば、何の変哲もない四季折々の風情を詠んだに過ぎないのだが、ここに真理が丸出しになっている。ここで、花に何か特別の意味を持たせたり、ほととぎすがどうの月が云々などと言い出したら、もはやそこに真理はない。

 つまり何もないとはこういう事なのだ。しかしこれを一般の方々にストレートに言っただけでは話にはならないので、強いて違反を承知で言葉を添えるわけである。私がスランプに陥って、何も話すことが無くなったのは、それで正しいので、元来話すことなど何もないのだ。つまり澄んだ心を一辺濁らして、世俗の垢にまみれさせなければならないということである。これを総じて妄想と言うが、敢えて正しくないことを想念するわけだから、結構苦しまなければならない。私の苦しみと言ったのはそう言うことなのである。学問の世界なら学んできた知識の蓄積を披露してゆけば良い。学んできた年限が長ければそれだけ話題は豊富にあるわけだし、窮することもあるまい。しかし我々の修行は、長年続けてくればくるほど、話しはなくなる。だから一番の説法とは、黙々と坐って貰うことである。自己の中から出てきたものが真実で、決して他から与えられるのではない。その最も重要な部分をないがしろにしては、どんないい話も所詮右の耳から左の耳に通過するだけである。頭の中を通り過ぎて行く一瞬心地よく感ずるだけで、後には何も残らない。汝自らに問うことこそ最も大切なことなのである。「自己の胸襟より婁出して蓋天蓋地にして、当に少分の相応あるべし」である。

 

 

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