櫻川
 
 うちの寺では毎月一回、ともしび会という、市内のご婦人方を対象にしたお話を聞く会を催している。と言ってもうちが主催しているわけではなく、総代さんの岡本家が主催されているもので、うちは会場を提供しているだけである。しかし家主の特権で、私はいつもご婦人方に混ざって、会費も払わずただで拝聴している。講師はいろいろな分野の方が来られ、つい先日は、名古屋大学の塩村先生の貴重なお話を伺うことが出来た。先生は十数年来、西尾市の岩瀬文庫所蔵の蔵書・書簡等、様々な文献を研究しておられる。今回は、幕府天文方、高橋作左衛門景保の手紙を紹介された。内容は帚星について、不吉な前兆ではないかという問い合わせに、特別なことではなく世界中で見られる現象であると明快に答えている。これによって、江戸時代の科学水準の高さを知ることができる。また太田垣蓮月書簡では文中の和歌の素晴らしさなど、江戸時代の日本人の教養の高さと品格を窺い知ることが出来る。流れるような運筆と合わせ、誠に書は人なりを感じた。

 さて先生の話の中で、大変興味深いことがあったのでご紹介させて頂く。人間界を仮に円に描き、もう一つ神仏の世界を円で描き、この二つの円が重なる、丁度ラグビーボールのような形の部分、つまり人間界と神仏界との交わる部分に生きている人、それは盲人・狂人・童子であると、江戸時代の人は考えていた。例えば盲人は目が見えないが、むしろ目が見える人間には見えない世界を見ることが出来るので、決して自分たちより劣っているとは考えなかった。職業もマッサージなどを盲人専門のものとし、健常者にはさせなかった。またちょっと言い方は語弊があるかも知れないが、所謂高利貸しなども、盲人の専門職とした。俗にも「借りるときの恵比寿顔、返すときの閻魔顔」と言うように、借りたときは良いがいざ返す段となると、途端に渋い顔になる。下手をすると踏み倒されることさえある。そう言うときにも、相手が盲人だと、借りた方も踏み倒し難くく、トラブルが起きにくいから、幕府は盲人の専門職にしたようである。つまり盲人は自分たちの住む俗界とは違い、神仏により近いところで生きているのだから、そう言う人を欺くことは出来なかったのである。
また狂人に対しても、精神病で救いがたい、単なる病人とは見なかった。例えばお能の演目にも、狂女が主人公で登場するものが幾つもある。「櫻川」では、我が子が人買いに攫われ、嘆き悲しんだ母親は子の行方を尋ね故郷を迷い出る。常陸の国磯部寺の僧が弟子にした少年を連れ櫻川に花見に行くと、流れる花を網で掬う狂女がいた。わけを尋ねると、わが子の名を櫻子と云ひ、川の名も櫻川というので、散る花も無駄にせじと思うて掬うのであると答えた。狂乱の花を掬う女に少年が櫻子であると告げると、母は夢かと喜んで一緒に故郷に帰って行く。ざっとこの様な物語だが、江戸時代の人は狂人は俗界に住む我々よりも、より神仏に近い、純粋で一途で心の汚れていない人達と考えたのである。だから狂女を主人公にした「花筐」など、幾つもの能が演じられ、そこに崇高な精神界を垣間見たのである。
 また子供についても同様なことが言える。子供を単に自分の所有物とは感えなかった。我が子は自分で育てるとろくな人間にならないから、むしろ他人に育てて貰う方が良いとさえ考えていた。つまり佛の子なのだから、みんなで育てるのが良いのである。幕末から明治の始めにやって来た外国人が、日本では子供を皆で可愛がり、我が子も他人の子も分け隔て無く面倒を見ている姿に驚嘆したと書いている。現代では親が我が子を殺める、幼児虐待が度々報ぜられ、深刻な社会問題になっているが、これなども子供は自分のものだから、生かそうが殺そうが勝手だという発想である。こういう親の、人間的資質に問題があることは勿論だが、子供を自分たちの住む俗界より遙かに貴い、神仏の世界で生きている存在なのだという考えはまるでない。最近の学校で起こっている、父兄の学校に対する無茶苦茶な介入なども、発想の根幹に童子は佛の世界に住む者という考えが無いところに根本的原因がある。結果的にはそう言う親の無知が、学校教育を破壊し、子供を益々駄目にしているので、実に罪深いことである。

 さて現代の科学技術の進歩は恐ろしいほどである。人間が月にまで行ったり、地球の裏側に居て、手の平に乗るほどの小さな携帯で、日本とお喋りが出来るなど、ついこの間までは考えられないことだった。その他、医療技術の目覚ましい進歩など、数え上げたら切りがない。しかし、ひるがえって心の世界はどうかと言うと、現代は全く衰退の一途を辿っているとしか言いようがない。まったく暗澹たる気持ちになる。日本人は猛烈に働いて、日々の暮らしは格段に豊かになったが、その一方で、目先の快楽に走り、自分さえ良ければそれで良しとし、目に見える世界にだけ目を奪われ、目に見えない世界を見ようともしない。何と薄っぺらで哀れな人間に落ちぶれ果ててしまったのだろうか。温故知新と言うが、先人の残した膨大な書物や書簡を通して、江戸時代に生きた日本人の真摯な生き方に触れ、現代人はもう一度、本当の日本人の生き方はどのようであったか、改めて考え直さなければならないと思った次第である。

 

 

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