逝きし世の面影
 
 禅の修行では掃除を大変やかましく言う。幾ら立派なご託並べても、身の回りが綺麗に整えられていないようでは話しに成らない。今回旅行で南アフリカ・タンザニヤ・ケニヤ・インドを巡ってきたが、いずこも凡そ掃除と言う概念がないとしか思えないようなところばかりであった。南アフリカのケープタウン市内では余り感じなかったが、特にタンザニヤのザンジバル、ケニヤのモンバサ、インドのコーチン・マルムガオ・ムンバイ等の都市では、ゴミが町中に溢れ、淀んだ川は恰もゴミ捨て場の如く、その不潔なのには目を背ける程であった。いずこの都市も決して豊かではないから、そこまで手が回らないとも言えるが、経済的に貧しいことと、周囲を清潔に保つと言うことは必ずしも矛盾しない。貧しくとも気持ちさえあれば掃除は幾らでも出来る。同情的に言えば、あの猛烈な暑さだから、特に日中は余り動かず、ドタ〜ッと横になったり、椅子に腰掛けたりするより他に仕方がないと言えなくもない。事実公園でもベンチや木陰で大の字になって昼寝する姿を多く見かけた。太陽の強さが違うのだ。膚をむき出しにしているとぴりぴり痛む。こう言うところでは、掃除をしようなんぞという気にならないのかも知れない。それにしてもあの不潔さと悪臭はとても耐えられない。さらにほこりっぽさも加わって、こんな所には長居できないな〜と思ってしまう。今回の旅行で一番最後に訪れたインドのムンバイで、スラム街を道路の上から見物した。そこは洗濯屋さんばかりが集まったスラムで、その不潔さと混乱と猥雑さは、何とも表現出来ない程であった。

 さて冒頭私が何故この様なことを書いたかというと、渡辺京二著、「逝きし世の面影」と言う本を読んだからである。これは我が国の幕末から明治を描いたもので、当時訪れた外国人が日本をどう見たかを、外国人の文献をふんだんに引用しながら書いてある。この本に出てくるヨーロッパ人の多くは、産業革命の恩恵を享受し、自分たちの文明に揺るぎない自信を感じていた頃で、人間は進歩しなければいけないという、進歩主義に染まっていた。それが日本に来て、自分たちとは全く違う価値観ながら、整然とした社会を目にして、驚いてしまったのである。勿論当時日本はまだまだ貧しい時代だから、ボロを着ていた人も多かった。しかしどんな貧しい農家でも、ひょっこり訪れた外国人に対して、「まあちょっと上がれ」と言い、縁側に腰掛けると奥さんが直ぐにお茶を持ってきたり、庭から綺麗な花を手折ってきたり、お新香を出してくれたりする。ヨーロッパだけではなく、世界中の多くの国で、こんなことをされたらお金を請求されると思ってしまう。ところが日本人は誰一人請求しない。日本人には当然だが、世界という視点からすれば不思議なのである。「日本は妖精の国のようだ」と言っている。明治二十二年に来日した英国の詩人エドウイン・アーノルドは日本を、「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と語った。さらに、「景色は優美で、美術は絶妙であり、神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べている。
 またこの時代に訪れた外国人の間では、女性に対する評価が非常に高い。ヨーロッパの上流階級の婦人に似ているからだ。例えばイギリスの中・下層階級の婦人には、粗野な人も多いようだ。ところが中の上以上になると、途端におしとやかな人が増える。服装も地味で、知性がありながら出しゃばったりせず静かに微笑んでいる。こうした点が日本女性に共通して見えたので、よけい高い評価を受けたのであろう。彼らは女性の外見を褒めているわけではない。「彼女たちはけっして美しくはない」とも書いている。陽気で純朴にして淑やか、生まれつき気品にあふれている点が魅力的だったのだ。しかも日本の場合は上流階級の女性だけではなく、全国津々浦々の女性がそうした美徳を兼ね備えていたわけだから、下品な美女より、愛嬌と気品のある不美人の方が、魅力的なのである。

 またヨーロッパ人が度肝を抜かれたのは、欧米の大都市が不潔で乞食だらけだったのに、日本はどこも清潔で乞食も殆ど居ない。井戸水を飲んでも安全で泥棒も居ないから鍵を掛けなくともいい。物質文明は遅れていても、こうした清潔さや治安の良さ、人々のやさしさ道徳や倫理においも欧米を圧倒していた。当時ロンドンは一番市民社会が進んでいると言われていたが、江戸時代を研究してみたら、エコロジーや清潔さ、市民の文化享受や識字率等、殆どの点において江戸の方が素晴らしいことが解った。
こんな調子でまだまだ文章は続くのだが、ここで思うのは、不潔・猥雑・品格の無さなどは、決して貧しさ故ではないと言うことである。幕末から明治初期に比べたら、現代はどれ程豊かになったか知れない。しかしその時代、ごく当たり前に持っていた日本人の美徳は、今日殆ど失われようとしている。アフリカやインドの不潔極まりない様を見て、伝統を抹殺し効率一辺倒の現代の日本に、大いに危機感を覚えたのである。

 

 

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