変革
 
 平成二十年三月、中国祖跡巡拝旅行へ出立した。五回に分けて中国を隈無く経巡り、祖師方の由緒地を訪ねようと言う、その第二回目の旅である。今回は湖南省の長沙から入り江西省の南昌で終わった。折悪しく、中国南部は五十年ぶりの豪雪に見舞われ、各地で相当な被害が出たと聞いていたので、道路が無事に通れるか等心配も多かった。寒さも余程酷いに違いないと、分厚いコートにマフラー、手袋、更にホカロンなどもしこたま買い込んで出掛けた。先ず上海の浦東国際空港に降り立ち、迎えのバスで約一時間半掛かって、虹橋空港へ移動した。夕食は近くのレストランで摂ったが、広い食堂はガラ〜ンとして客は我々一行のみ。酷く流行らない店で、出てきた料理も冷たい麻婆豆腐など、不味いったら無かったが、兎も角腹に押し込んだ。さらに一時間半ほどで長沙空港に着いた。ここは省都だけあって結構大きな街で、翌日からいよいよ巡拝の始まりである。

 第一日目、まずは市内から山道に入り何処まで続くのか心配になるほど走って漸く偽山の麓に広がる密印寺に着いた。ここは偽山霊祐禅師ゆかりの寺で、規模も大きく境内も整備され立派だった。次ぎに石霜楚円禅師の崇勝禅院、ここまでで夕方になってしまったのでホテルへ戻って夕食を摂り一日目を終えた。
 翌日は市内にある嶽麓山へ、円悟克勤禅師の寺である。急斜面の狭い境内には建物がひしめいており、ちょっとした観光寺院といえる。そこから約百二十キロ走って衡陽へ向かった。市内に入り小型のマイクロに乗り換え、細い山道をぐるぐる回りながら奥へ進むと、「磨鏡台」が現れた。これには面白い話しが伝わっている。懐譲禅師の元で修行していた馬祖が一生懸命坐禅を組んでいると、懐譲禅師が、「何をしているのだ?」と聞いた。「坐禅を組んで仏になろうとしています。」すると懐譲は瓦を石にこすりつけて磨きだした。それを見て馬祖は、「何しているのですか?」「鏡を作っているのだ。」「そんなことをしても鏡は出来ませんよ。」「お前が坐禅を組んで仏になると言うのだから、瓦を磨けば鏡になるだろう。」馬祖は大いに感ずるところがあったという。縦横一間ばかりもある大きな石には窪みがあり、まさかこれが擦った跡でもあるまいが、一応そう言うことになっているそうだ。
  三日目はバスで山道をくねくね曲がりながら二百三十キロ、萍郷へ。一時間もすると、突き当たりの急斜面のわずかな土地に小さなボロ寺が建っているのが見えた。楊岐山普通院で、もともとは廃寺だったが、別相と静誠尼によって復興され、現在は八十三歳の老尼と二十代の若い僧によって護られている。十年後にはこういう寺になりますと大伽藍の絵が掲げられていた。総予算は一億元だという。天井を見上げると空が見えるような現在の建物からは余りにもかけ離れた大構想に度胆を抜かれた。何かご意見をお聞かせ下さいと言われたので、失礼ながら、「身の丈にあった計画にされた方がよろしいのでは…。」と申し上げた。梨と大きな蜜柑を沢山出して下さったので、皆で遠慮なく頂いた。
 翌、四日目は先ず百キロ移動して仰山慧寂禅師の寺へ向かった。十数年前にこの地を訪れた人の話では、村の入り口に天王殿があり、後はこれと言って何も無く、背後の山に墓塔が点在するのみと言うことだった。ところが今回行ってみると、山際に幾つか建物があり、その左側には目下建築中の巨大な大雄宝殿と禅堂が屹立していた。

その大きさと言ったら、天を衝くばかりである。案内して貰った山中にある墓塔までの路は工事中と、丁度雨上がりだった為にぐちゃぐちゃで、全員泥だらけになってしまった。午後から再び山道をくねくね行くこと一時間、突き当たりに黄檗山が見えてきた。ここも記録では黄檗禅師の墓が残るのみと言うことだったが、行ってみると、仰山に負けず劣らず、大伽藍の建設中であった。数万坪の境内に巨大な建物が次々に建てられると言う。この又構想の大きいと言ったらないのだ。ガイド氏の話に依れば、数年前から中国共産党の中央政府が大号令を発して、各地に寺院を建立する計画なのだという。嘗て紅衛兵によって寺院は悉く破壊され、仏像などはまるでゴミのように打ち捨てられた。その同じ国家が、現在では様変わりして、盛んに寺院を建立しているのである。その理由は人心の安定にあるのだそうだ。中国人の心の奥底にある仏教信仰によって、市場経済化による拝金主義の横行や、あとを絶たぬ幹部の汚職を、立て直そうと考えたのである。ご都合主義と言えなくもないが、理由は兎も角こうして各地の由緒地が復興されるのは嬉しい限りである。その後訪れた百丈山も同様に復興計画が進みつつあり、洞山禅師の寺は山奥にも拘わらずお詣りが絶えなかった。行くところ驚くことばかりの旅であった。

 

 

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