生死
 
 人生を「生」の方から見る見方と「死」の方から見る見方がある。まずは死の方から見る生き方をしている人達についてだが、ジャーナリストの大熊由起子さんが、カナダ北方に住むへヤーインディアンのことを書いている。『彼らは何のために生きているか。それは美しい死に顔で死ぬために生きている。ヘヤーインディアンはそれぞれ心の中に「守護霊」を持つ。何かにつけてその守護霊と「話し合い」している。守護霊がいろいろなことを云うのを聞いて、それに従って行動するのである。だから年老いて病気になって、守護霊が「おまえは死ぬ」と云えばそれに従って、親族を集め思い出話しをし絶食、死を待つ。守護霊に「良い顔で死ねますように」と願うのだ。「良い顔」で死んだ者は再生出来ると信じられているのである。』
 これを単に未開人の馬鹿げた行為などと言ってしまってよいのだろうか。人生を死の方から見る生き方は、死期を悟り自ら絶食して死ぬのだから、いわゆる寝たきり老人などにはならない。これは禅の世界にも通ずるもので、高僧の中にも同様なことをして死んで行く人達が何人もいた。大慧禅師発願文には以下の通り記されている。「唯願わくは某甲、道心堅古にして長遠不退、四体軽安、心身勇猛、衆病悉く除き、昏散速やかに消じ、無難無災、無魔無障、邪路に向かわず直に正道に入って煩悩消滅し、智慧増長し、頓に大事を悟って、佛の慧命を続ぎ、諸々の衆生を度して、佛祖の恩を報ぜんことを。

次ぎに冀くは某甲、臨命終の時、少病少悩、七日己前に、預め死の至らんことを知って、安住正念、末後自在に、此の身を捨て了って、速やかに佛土に生じ、面のあたり諸佛に見え、正覚の記を受け、法界に分身して、遍く衆生を度せんことを…」。これを見ても禅僧の場合も、ヘヤーインディアンに非常に近い感じがする。尤も禅僧は「良い顔」で死んで再生を願うこともなく、家族親族も無いのだから、思い出話をすることもない。死期を悟ると絶食し、坐禅を組み、禅定に入ったまま死ぬ。これを坐亡と言い、当に自在にこの身を捨て終わるのである。
 次ぎに、人生を「生」の方から見る人々について考えてみよう。北欧のスエーデンなどヨーロッパ先進国には、我が国に沢山居る寝たきり老人が居ないという。これらの国々の老人達についてみると、最期まで生き抜こうとする姿勢、死ぬまでは自分の力で生きようとする強い意志を感じる。また老人のための施設や人的資源の豊富さにも驚かされる。これだけの設備と人間が居るからこそ、寝たきりを防ぐことが出来るのだろう。勿論、その費用は全て税金で賄われ、税金の額も桁違いに高い。
 さて我が国の場合はどうであろうか。介護保険制度が始まって、一応体制は整ったかのようではあるが、介護士に支払われる給与などを見ても、これでは維持は困難と思われる。もともと日本人の場合はどちらかと言うと、「死」の方から人生を見るのを得意にしている。そういう風土の中へ西洋の考え方を輸入し、延命のための方策が取り入れられた結果、長寿国になったのである。だが、一人で生き抜くという姿勢や心根までは輸入されず、そういう文化の挟間の落とし穴に落ちて、沢山の寝たきり老人を抱えている。これが我が国の老人間題の根幹にあるのではないかと思われる。
 グリム童話にこういう話がある。神さまは世界を作り生物に寿命を定めた。ロバに三十年を与えると、ロバは荷役で三十年も苦しむのは長すぎると訴えた。そこで神様は十八年減らして十二年の寿命を与えた。次に犬も噛む歯もなく唯唸っているだけなら堪らん。そこで十二年減らして十八年の寿命。猿も三十年は長すぎるというので十年減らして二十年の寿命。ところが人間だけ長生きしたいというので、神様はロバ、犬、猿から取り去った年を人間に呉れることになり、人間の寿命だけが七十年という長さになった。こうして人間は、最初の三十年は人間の年を生き、後の十八年はロバのように荷役に苦しみ、次の十二年は犬のように横になって喰るだけ、後の十年は猿のように間抜けになって子供の笑いものになった。この話、何らかの真実をえぐり出してはいまいか。

 先日大変お世話になった老婦人が高齢のため弱られ入院されたと聞き、お見舞いに伺った。この方は界隈随一の教養人で、凛とした姿には気品が漂っていた。しかしいま目前にする姿は、老いさらばえ、体中に点滴の管が巻き付いている。こういう医学の進歩は果たして人間の尊厳を保つことに繋がっているのだろうかと疑問を持つ。冒頭に取り上げたへヤーインディアンの死の迎え方は一見馬鹿げたようでも、余程精神性の高さを感ずる。科学技術の発達が却って人間を駄目にしている証ではないかと思うのだ。

 

 

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