意味のある偶然
 
 武満徹という著名な作曲家をご存じだろうか。日本で只一人世界に通ずる現代音楽の作曲家である。彼は二十歳の頃より独学でこの道に入った。曲作りに苦しんだ時は常に大好きなバッハの「マタイ受難曲」を聞いてインスピレーションを受けたそうである。六十を過ぎて間もなく、癌に冒され虎ノ門病院に入院した。病状は日に日に悪化し、亡くなる二日前のこと、前夜から雪が降り続き、積雪十四センチの大雪、交通機関も大きく乱れた。武満氏は夫人に、「明日は雪で電車が動かなくなるかも知れないから、来なくとも良い。」と話してあったので、夫人は久しぶりに自宅で休養した。見舞客
も誰も来ない中、本を読むのは少々しんどい、ふとラジオをつけるとNHK・FM放送でクラシック音楽の番組があり、曲は何と武満氏が大好きなバッハの「マタイ受難曲」だった。長大な曲で全曲が放送されることなど滅多にないのだ。心の奥深いところで響いたマタイ受難曲が当に人生を閉じようとしていた時、一人病床に伏す部屋に静に流れ出した。私はこの話を知って、あの著名な作曲家が至福の世界に浸ったマタイ受難曲とは一体どんなものか、是非聞いてみたいと思った。そこで早速CDを購入、延々数時間じっと我慢して聞き続けたが、遂にギブアップしてしまった。まっ、それは兎も角として、NHKのディレクターが武満氏の状況を知ってこの日のプログラムを決めたわけではない。また大雪に成らずいつものように来客が有ればラジオをつけることもなかったであろう。

全てが独立した出来事であるにも拘わらず、奇跡的にすべてが同時に起こり、どんな曲よりも深く親しみ馴染んだマタイ受難曲の全曲を彼は一人静に聴くことが出来たのである。そして自然のままに安らかな大いなるものに命を委ねる心境になったのではないだろうか。これを臨床心理学者の河合隼雄氏は「意味のある偶然」と言っている。
  こういう話しの後で私事を書くのは憚られるが、私が嘗て出家の志をたてた時、どのような手続きを踏んでお坊さんになれば良いのか皆目分からず困ったことがあった。そんな時、高校在学中、兄の隣の席にたまたま禅宗のお寺の息子さんが居たことを思いだした。そこを手掛かりにして横浜のK寺の和尚さんを紹介して貰い、その和尚さんの縁で伊深の梶浦逸外老師をご紹介頂いた。それからまた梶浦老師が嘗て小僧をして居られた京都の寺へと小僧に入ったのである。遡ればそもそも兄が件の高校へ入学したのも偶然のことで、本来は全く別の高校へ入る予定が、学校側の事務上の手違いがもとで、入学できなくなってしまった。当時これには両親も途方に暮れ、遠縁を頼ってこの高校に特別に入学許可されたのである。だからもし普通に事が運ばれていれば兄と禅寺の息子が巡り合うこともなかったわけで、そうなれば私と梶浦老師とも巡り合わなかったことになる。もし梶浦老師と巡り合わなかったら、多分今とは全く違った人生を歩んでいたに違いない。一つ一つの事柄は全て偶然の寄せ集めに過ぎないのだが、不思議に一本の糸によって繋がれているように見える。これも意味のある偶然と言えるかも知れない。では何故偶然が意味を持ってくるのかである。私はこの背景には「貫く思い」があるからではないかと感ずる。これをまた「正念相続」と言えまいか。
 私の場合、十八歳で出家して以来四十数年間、ずっと修行したいという一念で来た。だから 私を取り巻く全ての事柄はこの気持ちで貫かれていて、見るもの聞くものすべてが修行に繋がるのである。何かを心に留めてずっと保ち続けていると、偶然のきっかけからその事と結びついて、一気に良い方向へ向かうということがある。もしその思いを心に温め続けていなかったら、おそらく何も知らないうちに通り過ぎてしまったであろう。常にアンテナを張っていたからこそ引っかかったわけである。

  考えてみれば、我々の日常の大半は偶然の積み重ねで出来ていると言っても過言ではない。だから人生を只漫然と無為に送るならば、単なる偶然が入れ替わり立ち替わりやって来ては去って行く繰り返しで一生が終わってしまう。こんなことではつまらないではないか。私は毎朝本堂での勤行の後、内佛に祀ってある両親と先に死んでしまった兄弟三人とばあやの位牌にお経を読む。読み終わって暫くじっと合掌のまま心の中で、「今日一日私を守って。」とお願いしている。「劔刀上に走る」 という禅語があるが、人生とは実に危ういもので、これまでもあわや!と思うことが幾らでもあった。それでも崖から落ちずに何とか凌いでこられたのは、私の意思を超えたところで、私は守られていたと感ずるのだ。人生とは実に意味のある瞬間の連続ではないだろうか。

 

 

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