断食道場
 
 今年も三月上旬一週間、九州の断食道場へ行ってきた。通い始めてはや十数年、やる事は毎年同じことの繰り返しなのだが、一回一回、不思議なほど新鮮な気持ちになる。滞在中は酵素の甘い液と玄米を焦がしたお茶を飲み、酵素で発酵させたおがくずの中に日に二回潜って汗を出す。後はひたすら寝る。これだけなのだが、心身共にリラックスでき、一週間過ぎる頃には、一年分の英気が養われる。確かに腹も空くし、多少苦痛も伴うが、人間快適ばかりが良いとは限らぬようで、程良い苦しみが有ってこそ、その後の気分もスッキリするようである。まっ、これは主に肉体的な方面の効用で、この断食道場の特色は、もうひとつ、主催者の吉丸先生の講義にある。今年七十二歳になられる老婦人だが、道場を興されてもう三十年にもなるという。発足当時は苦しい資金繰りで、講義に使う教材はいつもご主人がガリ版刷りで作ってくれたそうで、今でもそれをずっと使い続けている。そこで、もうぼつぼつ活字でプリントし、表紙を付けてもっと体裁も良くして、さらに内容も一新してはどうかと考えたそうである。ところが、スタッフの皆に相談したところ、このままで行きましょうということになったらしい。「聖書もお経も、二千年以上ずっと同じ。何時の時代も真理は変わらぬ。だから却って変えない方が良いのだ、という結論に達しました。」と仰っていた。

 私は般若会という座禅会を興して今年で二十四年目になる。その間殆どの会員は同じ顔ぶれで、年間十五回ほど話しをするから、計算すると今までに三百以上の話をしたことになる。幾ら手を変え品を変えと言っても、自ずから限界があり、そこでもうこの辺で、話題のない時はその分坐って貰ったらどうかと考えた。しかし吉丸先生の話を聞いて、間違いだと気づかされた。先生の変わらぬ講義を拝聴して、もう十数年にも成るが、古びたと感じたことは一度たりともないからである。それは何故かと考えた。あくまで真理は一つなのだから変わりようがない。さりとてレコードのように全く同じ繰り返しというわけにもいかない。そこでその辺を意識して先生の話を聞いたところ、解ったことが一つあった。それは同じ事の繰り返しでも一回一回、先生が「成りきって」話をされているということだった。こういう道場へ来る人は大抵が西洋医学からは見放され、もうどうにも成らなくなって駆け込んでくる人達だ。私のように別にこれといった病気のない者は
希で、心身共に病んでいる者が多い。そういった人達を励まし元気づけ、病に立ち向かってゆこうという気力を起こさせるには、道理を説いて納得させること以上に、弱った心に溌刺としたパワーを注いでゆくことが最も大切になる。道理や理屈などはただのスローガンに過ぎず、それが実行されなければ絵に描いた餅同然である。昨年起きた某洋菓子メーカーの不祥事のようなもので、きっと社内の各所に、厳正なる品質管理をうたった張り紙は、いくらでも有ったに違いない。しかしそれが一向に守られなかったということは、つまりその具体的方法や手順が明確に示されていなければ、全く意味を成さないということなのだ。
  健康についても同様で、こうすれば良いなどという話しや情報は本や雑誌、或いはテレビラジオなど、私たちの身近に溢れている。しかしそれはスローガンを書いた張り紙と同じで、網膜や鼓膜から一ミリ入ったところで雲散霧消する。では心深く浸透するには何が必要かというと、それには信念を持った人間の生きたエネルギーが不可欠であり、それが伝達されるか否かで決まる。相手の心に深く響かなければ駄目だ。その為にはただひたすら対する者に「なり切って」ゆく以外に方法はなく、当然そこには信頼関係が生まれて来なければならない。ここで重要なことは、「人柄」である。誰がそれを言ったのかが鍵を握ってくる。

 これから春に向け、野山では新芽が一斉にふきだす。土筆・よもぎ・蕗のとう・タラの芽・ゼンマイ等々、山菜の美味しい季節でもある。これを口にするにしても、ただ単に、「山菜のこのほろ苦さが美味しいですね〜。」では駄目なのだ。山野草が長い冬の寒気を凌いでようやく芽を吹き、充満した大地のエネルギーを体全体で頂くという意識を持って口にしてこそ、本当の意味で体の滋養になり活力となるのだ。
  今、健康について述べたが、我々日常生活の万般に亘るあらゆる事柄すべて、正しい理論と、具体的な手法、着実な実行、これらによってこそ、確実な効果が現われてくるのである。ましてや人生如何に生きるべきかというような問題であったならば、信頼に足る明師を選び、一端決めたら地獄の底までもついて行く覚悟と誠実さが必要になって来る。いやはや、断食の話がとんだところまでいってしまった。

 

 

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