釣瓶
 
 昭和三十六年三月二十四日、夜十一時半。そぼ降る雨の横浜駅から洪福寺の和尚さんと父と私の三人は急行出雲の三等車に乗り込んだ。交通費節約のため寝台車ではなくコチコチの椅子席に腰掛け、うとうとしながら延々六時間半、漸く早朝の岐阜駅に着いた。首都圏の雑踏に慣れた者には人っ子一人居ないプラットホームは閑散として一層寒さが身に染みた。まずは腹ごしらえということで、二階建ての駅ビルの大衆食堂に入った。食べ終わると駅から歩いて数分の所にあるバスセンターへ行き、午前八時四十分発廿屋行きバスに乗り込んだ。バスはしばらく街中を走っていたが徐々に周囲は田畑が広がる田園風景に変わった。これから行く寺は相当山奥と伺っていたので覚悟はしていたものの、延々と続く田畑に寂しくなって来た。三十分ほど行くと俄に市街地に入った。今から思えばそこは関市である。さらにバスは尚も田舎道を走った。目的地には一体いつ着くのだろうか、この先どれだけ山奥に入ってゆくのか、だんだん心細くなってきた。そんな私の思いをよそにバスは小さな田舎町を通過し、周囲の山が間近に迫って、一本の細い道がその真ん中を通るだけになってきた。

バスに揺られながら一時間半、正眼寺門前に辿り着いたのである。この日、私は出家のため伊深の正眼寺梶浦逸外老師にお目に掛かるため、はるばるやって来たのである。彼岸も過ぎたというのにぼたん雪が舞い木枯らしが吹き抜ける寒い日であった。和尚さんは用意してきた傘をさし、長靴スタイルで長い階段を上った。予め手紙で面会の予約を取っていたので直ぐお目に掛かることが出来た。細い廊下を幾重にも曲がり六畳間ほどの小さな部屋に通された。私はこのとき初めて禅僧に会ったのだが、相当イメージと違っていた。逸外老師はずんぐりむっくりの体型に無精髭を生やし、両耳からはもじゃもじゃ毛が生えていた。まるで錘馗さんのようで野人そのものの風貌には驚かされた。爾来この人と深いご縁に結ばれることになるのだが、この時は夢にも思わなかった。
  あらかじめ和尚さんから相見の際には、何故お坊さんに成りたいのか必ず聞かれるので、その時はハキハキと答えるように、この老師さんはとても厳しい人だからぐずぐずしている者は大嫌いなのだ、と言われていた。先ずはお茶を一服頂くと案の定直ぐ聞かれた。遥か昔のことで、その時どう答えたのか、はっきりした事は忘れてしまったが、悩み苦しんでいる人を救いたいと言ったような覚えがある。今にしてみれば恥ずかしい限りだが、十八歳の頃の私にとっては、それが精一杯だったのである。
  その時老師がこんな話しをして下さった。『昔、或る所に資産家の老夫婦が居た。しかし子供が居なかったので、何とかこの財産を受け継いでくれる跡取り息子は居ないかと思案していた。そこで親孝行をしたい者を求むと広告を出し募集することにした。すると翌日から続々と応募があり、我こそはとやって来た。そこで本当に親孝行をするのか確かめるために試験をした。すると全ての者が落第してしまった。そうこうしているうちに又別の一人の若者がやってきたので、件の試験である。それは裏の釣瓶井戸の傍らに連れて行き、明日一番鶏が鳴くまでにこの四斗樽に一杯水を汲めというものだった。しかしこの釣瓶の桶は二つとも底が抜けていたのである。さて一晩経って老夫婦が井戸端へ行ってみると四斗樽からは水が溢れていた。』 この話をされた後、老師は私に向って、「お前さんに聞くが、どうして他の者は汲めなかったのにこの若者だけが水を汲むことが出来たのか解るかね。」と問われた。しかし私は答えることが出来なかった。すると老師は「解らなくとも良い。儂も小僧になる時この話を師匠から聞かされ答えることが出来なかった。それでは教えてやる。例え桶の底が抜けていても一滴や二滴の雫は付いてくるではないか。だから繰り返し汲み続ければ四斗樽だろうが十斗樽だろうが幾らでも水を満たすことは出来る。お前がこれからする禅の修行はこれだ。才能など無くても良い。馬鹿になって倦まず弛まず努力し続けることだ。そこで肝心なのは水を汲む桶の底は抜けていても良いが、水を受ける樽の底は抜けていては駄目だぞ。」と懇々と諭された。

   この話は一見たわいのない子供向けの話のように思われるが、決してそうではなく、禅の修行を端的に表現した実に奥深い話である。教外別博不立文字(きょうげべつでんふりゅうもんじ)の禅はややもすると、理屈や道理で理解する傾
向がある。それが証拠に佛書屋へ行けば天井に届かんばかりに禅の本が積み上げられている。しかしそこに真の命脈は無いばかりか、それを読んだ学徒は解ったように錯覚を起こし志を失って佛法を行ずることから千里万里の彼方へ去ってしまう。今こそ修行が禅の生命であり、唯一の価値だと知らなければならない。私にとっても今尚、この一滴を汲み続ける日々である。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.