2004年5月 絶対自力

 
 僧堂の師家とは雲水の修行を指導してゆく役目だが、私がこの役を仰せつかって今年で早や二十六年目になる。ついこの間の様な気がするが、もうそんなに経ってしまったのだ。僧堂にやって来る雲水は千差万別だから、相手の気根を見て、厳し過ぎず優し過ぎず頃合いを見計らう必要がある。これがなかなか難しく、初めの頃はつい厳しくやり過ぎて、折角の道心を打ち砕いてしまったこともあった。僧堂は平均月に一回、一週間の大接心が ある。特にこの期間は集中的に坐禅や参禅が有り、修行する雲水も楽ではないが、それを受け止めるこちらも一緒の気分で、つい力が入って終わるとドドッと疲れが出る。そんな時ふっと師匠はこういう時はどんな気持ちでやっておられたんだろうかと想い出す。
 雲水はそれぞれ公案を与えられ、朝晩その答えを提示して来る。私の方は見解(けんげ)対し、即座に反応しなければならない。言い過ぎてもいけないし、言い足らなくともいけないと言う、大変微妙な遣り取りをする。

勿論この場合一定の形式があるわけではなく、師家によって対応は様々だ。相手の雲水が真剣なら当然こちらも真剣で、一言半句疎かにはできない緊張感が漲ってくる。
 嘗て自分も雲水時代、全く同様の問題で四苦八苦した訳だから、相手の心中は痛いはど解る。新到の頃、初関で行き詰まり同じ答えばかり何ヶ月も持っていったことがあった。その時の師匠は全く無反応で、ただチリチリと鈴を振って帰って行け!と言うばかりであった。随分自分には冷たいんだな〜と、つい愚痴の一つも出るほどだった。しかし兎も角此処を乗り切るには骨折る以外に方法はないと心に決めて、他の誰よりも夜坐に精を出した。結果的には師匠のその時の冷たい仕打ちが私を励まし、人一倍の努力をさせたのだ。後年この時のことを想い出し、あれが私に対する最大の愛情だったとしみじみ有り難く感じたものである。
 ところが最近になって考え直してみると、あれは単に面倒臭かったからであって、別に師匠が私の為を想って心を鬼にしてやってくれていたわけではないと考える様になった。当時師匠は連日外出しては夜遅く戻って来る多忙な生活で、帰ってからすぐに参禅を開くのは確かに疲労困憊だったに違いない。しかしそれが師家たる者の本業なのだから、在家往来などは余り感心したことではない。こんなことでは参禅に身が入るわけもなく、要するにいい加減だったのだ。こんなことを今更言うのは師匠に対して失礼に当たるかも知れないが、自分で二十六年間やって来てそう思うのだから間違いない。ただ此処で重要なのは、自分がそれをどう受け止めてどう生きたかなのである。私の場合は頑張った、そして後年それを有り難いと思ったのである。
 人は誰でも自分のことで精一杯で、他人のことなど考えていられるか!が本音である。このことは参禅修行ばかりではなく、世間のあらゆる事柄でも同様のことが言える。つまり人を頼ってはいけないのだ。ところが人間は弱いもので、一寸困難にぶつかるとすぐ人の情けを当てにする。参禅でも同じで一寸でも同情しようものなら、相手は即座にその情につけ込んでくるものだ。まさに溺るる者は藁をも掴む″である。誰だって優しくした方がこちらの気持ちも良いに決まっているが、それでは師家たる者の役目は果たせない。そこで心を鬼にして冷たく接するわけで、これも修行の要ることである。つまりいい加減な気持ちで冷たくしたのではいけないということだ。師家は何時も雲水と真剣に向き合っていることが肝心なのである。人間だからよそ事に奔走し、そちらにエネルギーを使ってしまえば、自然参禅に向かう気力は萎えてくる。とは言え、師家も社会的な存在を無視するわけにはいかないから、ある程度世間に迎合してゆくのは止むを得ない。しかしやり過ぎはさけるべきで、師家側の意識にも、参禅や講座に対して喜びを感じることが大切である。何事もその内に喜び有りで、これが無ければ自ずと身が入らぬことになる。

 私は嘗て修行中幾たびか岐路に立った。 そういう節目には事柄によって、数ヵ月間、或いは二年、三年と苦しみ、如何になすべきか考えた。しかしだからと言って他人に相談しようなどと一度も考えたことは無かった。その時私を支えてくれたのは坐禅である。坐禅を組みながら私自身に向かって問い続けたのだ。他人からどんなに素晴らしい助言を得ても、それは所詮他人のものであり、決して自分のものには成らない。その答えが喩え未熟であったとしても自分の内側から得られた決断にはその後迷いはない。それは腹から出た「真性の見解」(しんしょうのけんげ)だからだ。ある人が禅は冷たい宗教だと言っていたが、その通りである。しかしこれが真に人を救う道なのである。

 

 

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