2003年6月 野菜の花園
 
数年前、友人のポール氏とレンタカーでスコットランドを旅したことがある。その時ブレアギャウリーの郊外のキンロッフハウスという、辺りは地平線の彼方まで畑が続く所にぽつんと在る二階建ての小さなホテルに泊まった。中に入ると大きな暖炉に大木が積み上げられ赤々と燃えていた。フロントでチェックを済ませ部屋に案内され、驚いたのは外見とは打って変わって部屋の中が素晴らしい作 りだったことだ。ベットや調度品、洗面所やバスなど何もかもグレードの高いものばかりで、しかもボーイの接客態度がまた洗練されていた。田舎のど真ん中に忽然と五つ星のホテルが出現したようだ。思わぬところでこんなに素晴らしいホテルに巡り合えるとはなんと有り難いことだと二人で大いに喜んだ。
 ホテルの前には広大な牧草地が広がり、 そこに一頭の巨大な牛がのんびりと草を食んでいた。

茶色の長いふさふさした毛に覆われ、ごつい角がにょっきりと突き出ていて、いかにも豪快な感じがした。ポールの説明によればこの地方では牛を庭に飼って眺めるのがステイタスだそうで、乳を搾るとか農耕に使うとか、ましてや肉牛として出荷するというようなことは一切無く、いわばペットとして飼っているのである。
 さて、ホテルの周囲は畑が続くばかりでこれと言って他には何もない。そこで裏側へ廻ってみると、鬱蒼とした木々に囲まれ、高い塀がめぐらされている一角に出た。こんな所に一体何だろうと不思議に思い、小さなドアーが有ったのでそっと押すと難なく開いた。なんと中は色とりどりの花が咲き乱れ、それは華やかで美しい花園だった。中心へ向かって真っ直ぐ煉瓦を敷き詰めた道があり、真ん中には大理石で出来た女神像、周りは噴水のある池になっており、そこから放射状に石できちっと区画が成されている。ところがよく見ると初め花園だと思ったのは間違いで、なんとそこは野菜畑だったのである。しかしこれはいったいどういうことなのだろうかとしばし考え込んでしまった。
 まず第一は、この異常なほど高い塀である。しかしそれは直ぐ理解できた。多分この地方は季節によって相当激しい風が吹き抜け、それから作物を守るためであろう。次に解らないのは、この綺麗な花園はいったい誰のためにあるのかということである。宿泊客のためにならこのような人目に付きにくい裏手ではなく、ホテルの前の畑にでも作ったらさぞ喜ばれるに違いない。好奇心旺盛で遠慮のない私だからこそこんな奥にまで入り込んで、たまたま発見することができたのだ。じっと眺めながら考えている内に、この美しい花園はきっと菜っ葉や大根やカボチャ達のために作られているのではなかろうかと思えてきた。そのつもりでもう一度眺め直すと赤や黄色、白など色とりどりの花も綺麗だが、交互に植えられている菜っ葉やカボチャの生き生きしてなんと美しいことか。入念に手入れされているのは花の方ばかりではなく隣に植え られている作物も同様なのである。その時直ぐ私の頭に鶏舎が浮かんだ。何千羽という鶏を狭い小屋に押し込んで、餌と水を機械的に与え、恰も鶏を製卵機のように扱っている姿である。効率的に卵を生産するという目的だけで、それ以外のことは一切無駄だとする考え方である。鶏たちに聞いたわけではないが、こんな非道な扱いを受けて喜んでいるはずはない。つまりああいう状態の所から生み出される卵はきっと無機的な生命の通っていない卵に違いない。畑の菜っ葉やカボチャにしても同様で、より多く収穫することだけが目的で耕し肥料を与え、早く大きくなれ!で育てられたのでは、きっと菜っ葉やカボチャ達も良い気はしないだろう。こう言うと大抵の人は笑う。それは鶏や菜っ葉を人間と同様に考えることの可笑しさなのであろう。しかし鶏でも菜っ葉でも我々と寸分違わない尊い仏性を持っていることに変わりはないのだ。 何故人間だけが特別で他は人間に利用されるだけの生き物なのだろうか。そんなことが有っていいはずはない。じっと眼前に広がる色とりどりの花たちと青々と茂る菜っ葉を眺めながら、こういう確たる考え方を持って農業をしている人の居ることが何より尊く有り難く思えた。

 我が国は今や世界屈指の経済大国で、収入も増え日常生活万般に渡って豊かになった。しかし心はそれで本当に満たされただろうか。単純に収入の金高だけで、より多く得られると云うことが即ち豊かであるとは言えぬ。寿命にしても同様で、たとえ八十年に延びたとしても、その八十年を如何に生きたかが重要である。物理的長短だけで計れるものではない。このイギリス人のようにより質の高い人生を楽しむ方がどれだけ価値があるか知れ ぬと思うのである。

 

 

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