2001年8月 魂
 
 或る人からこんな話を聞いた。日本の人があるときアメリカインデアンと旅をしたそうである。一緒に歩いていたら、突然インデアンの人達が皆座り込んでしまった。どうしたんだと尋ねると、「今、魂が遅れたので待っているんだ。」と答えた。そしてしばらくすると又何事もなかったように歩き出したという。
 私はその話を聞いて、直ぐについ先日あったことを思い出した。それは所用により和尚さんと二人で大分市まで出掛けた折りのことである。用事といっても極めて儀礼的な内容だったので、ちょっと挨拶をしてくればそれで良いというような気軽な日帰りの旅であった。車内では二人ともお喋りをしたり駅弁を食べたり又うとうとしたりしながら、のんびりと電車に揺られていた。そんなに時同行の
和尚さんが、「何もしないのに何だか草臥れるね!。寺で草引きでもしていたほうが却って疲れないな!。」と言った。そこで私はその得体の知れぬ疲労感についてこんな風に申し上げた。

 少し以前までは岐阜から大分まで出掛け、そこで用事を済ませて日帰りするなどということは到底考えられないことであった。それが今では新幹線が通り、さらに最近に至ってはスピードアップされたのぞみが走るに及び、益々旅が効率的になった。これはたしかに便利で快適で結構ずくめに思われるが、そうとばかりは言えないと感ずる。つまりこんな猛烈なスピードは、我々人間が本来持ってい
る体内のリズムに合っていないのではないかということである。私には矢張り自分の力でてくてくと歩くスピードが一番しっくりゆくように思える。名古屋から小倉までわずか三時間というのはどう考えても異常と言わざるを得ない。
 人間が太古の昔、暮らしていた自然なリズムは今日も我々の体の細胞のそこここに残っていて、その不自然さやギャップが得体の知れぬ疲労感につながっているのではないかと考えられはしないか。言い換えれば”魂の遊離”である。電車に乗って快適だと感じていたのは肉体だけで、実のところ太古のリズムで動いている魂は置いてきぼりを食わされ、後から汗を拭き拭き必死になって主人を追い
掛けている。我が家へ帰って横になっても寝付けないというようなのも、まだ見知らぬ土地でまごまごしながら一生懸命後を追い掛けている”魂”のせいではないかとも思える。
 私は最近歩いて四国遍路の旅をしている。遍路というとそれだけで特別な意味が込められていると思われるかも知れないが、実際にやってみると別段何もない。てくてくとただひたすら歩くのみである。それなのに不思議と心が安らぐのは何故だろうか。最初この意味がよく解らなかったが、やがてこう思うようになった。この何とも言えぬ心地好さは天地自然のリズムと体とがぴったりと合った空
間に身を委ねていたからこそ生じたのではあるまいか。
 間もなく二十世紀が終わりを迎える。各方面でこの百年を振り返ってみて、どうだったかということが議論されている。私は二十世紀最大の特色を挙げるとすれば、それは目覚ましい科学技術の発達ではないかと思う。我々は日常当たり前にその恩恵に浴し便利で快適な生活をしているわけだが、一方ではその弊害が近年深刻な社会問題として騒がれだし
た。しかしこれらの議論は大半物質的な事柄だけに偏っていてもう一方の心の弊害を見落としてはいないだろうか。
 特に異常な犯罪や事件が多発するのを見るにつけても、これは一個人の特異な問題ではなく、もっと深刻なところで人々の心が蝕まれている証拠なのではないかと感じる。私にかぎってそんなこととは無関係と思っている多くの人達も、実は極めて危険な淵を無自覚のままに通り過ぎているのであって、ちょっと何かの弾みで歯車が狂えば我々も即、当事者に成り得る状況の中に居ることを自覚す
る必要がある。

 今最も求められていることは本来の自分に帰るということである。では本来の自分の姿とは何か。それは魂と共に生きるということだ。静かに心と体と呼吸を整えて太古の昔から細胞に組み込まれているリズムを呼び戻し、大自然と一体となって考え感じて生きることである。ちょっと観念的で解りにくいかもしれないが、二十世紀の科学は余りにも物質的なことばかりに目を向けすぎて、物質と物
質の間にある空間の価値を蔑ろにしてきたのではないだろうか。空気や水、或いは人と物質との間に存在するもの、これこそが重要な問題なのだ。おそらく二十一世紀は今まで殆ど顧みられることのなかったこの空間≠ノ人が気づき、これと大自然の持つ哲理とを、いかに調和させてゆくかが最も大切な課題になるに違いない。そこに安らぎ≠フ原点が見つけられるのではないだろうか。

 

 

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