1995年2月 脱体(だったい)に道(い)うことは難(かた)かるべし
 

 修行中の雲水には色々な信者さんが出来る。中でも法衣屋(ころもや)さんは 少し古手の雲水にとって、把針灸治(はしんきゅうじ、休日のこと) には終日のんびりさせてもらえる格好な休息所となる。僧堂のように規則規則で二十四時間がんじがらめになっているものには又格別のものである。
 丁度其の日、一人の雲水が把針灸治で何時も馴染みの法衣屋に上がり込んでいた。冬の寒い時期、火の気のない僧堂では到底味わえない暖房の効いた部屋で、首までこたつに入ってうとうとしていた。其処へひょっこりと梶浦老師がやってき た。その法衣屋は老師の昔からの信者さんだったので、京都へ出掛けた折りには何時も宿をお願いしていたのである。雲水にとって老師は雲の上のような存在、ましてや厳格なことで知られていた梶浦 老師である。縮み上がり畏まって挨拶した。梶浦老師とその雲水が修行している僧堂の老師とは同年同月同日生まれ、その上俗名も同じという誠に不思議な縁であり、宗門の専門校の同級生というお互い旧知の仲であった。

その老師は若い頃僧堂で三年ほど修行した後、自分が小僧をしていた寺の住職になった。そうして間もなくのこと、丁度季節は秋で落葉の盛んに散る時期であった。せっせと庭掃除をして集めた落葉を燃やすと、その傍らでついうとうとと寝入ってしまったのである。どの位時が経ったろうか、ふとパチパチという音に目が覚め、見渡した時には既に火は本堂一面に広がり手の施し様もない状態、あ れよあれよと言う間に遂に全焼してしまった。何百年という本堂は一瞬にして灰燼に帰してしまったのである。
 寺を守るものにとって火災は最も気を付けなければならないことである。大変なことになった。これからどうしたら良いものかと悩んだ末に、自分の修行の未熟さを痛感し、再び僧堂に戻り修行をやり直す決心をした。後遂に修行を完成。あい前後して火災で失った本堂も立派に再建したという。我々修行中、梶浦老師は提唱 (ていしょう、講座)にいつもこ の話を引用され、真面目にこつこつ修行を続けることの大切さを説かれた。「お 前さんはこういう立派な老師の元で修行しているのだから途中で棒を折らずに最後まで頑張りなさい。お前は実に良い人相をしているから必ず将来は大成する。」その上法衣屋の主人を呼び、これからもこの者が来たときは親切にするようにこんこんと頼んでいったということである。
 彼にとって、それは本当に思いがけないことで、さぞかしこそばゆかったに違いない。しかしこの時の梶浦老師の親切がその後ずっと心に刻まれたという。そうしていつか自分が寺の住職になり弟子を持つようになった時には一人目は自分の修行した道場へ、二人目は必ず正眼寺へ遣ろうと心に決めたそうである。果たして後、彼は遂に修行をやりとげ、今大きな寺の老師となり、本当に二人目の弟 子を正眼寺に遣った。
 梶浦老師は大変厳しいことで有名な人だった。私が小僧として側に居て二十数年の間に、面と向かって笑顔で接してくれたのはたった一回切りだったように思う。それも老師の死の一週間前、「お前元気そうじゃないか」と本当に嬉しそうに微笑んだ。それが後にも先にもたった一回、外は叱られるばかりで、恐くて仕方がなかった。今でも仏頂面しか想いだせないくらいだ。それなのにどういうこ とか、この雲水に対してはまるでお婆さんが孫を可愛がるような態度である。
 「出身は猶易かる可し、脱体に道うことは応に難かるべし (しゅっしんはなおやすかるべし、だったいにいうことはまさにかたかるべし)。」という言葉がある。 直球ばかりが能ではない。要は相手の心をいかに揺り動かし、修行させて行くかである。一見見え透いたような嘘で、少々オーバーなパホーマンスでも相手にとっては、却ってその方が真実となりうるのである。これは決して単なる方便ではなく、対するものに心底成り切らねば出来ないことである。私は後年この事実を聞かされたとき、梶浦老師の毛穴からほとば しり出た脱体底を垣間見る思いであった。
 時が移り現在は私も何人かの雲水を指導して行く立場となった。近頃は資格を取る為だけに二、三年をめどに入門してくる者が大半である。しかしそんな中にも数は少ないが、まともな者も居る。そこでこれを何とか育てようと、縦に説き横に説き言葉の限りを尽くして、修行を続けて欲しいと引っ張ってはみるが、十二年やってきて遂に只の一人も育てることが出来ていない。これは相手の質が悪 いからだと思い込んでいたが、最近になってどうもそれは違う。問われていること、それは当に私自身の修行なのだと考えるようになった。
 

 

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